2018年12月アーカイブ

2018年12月29日「未来に向かって」

明後日は平成最後の大晦日。今年は元号が慶応から明治に替って150年目です。
幕藩体制から近代国家に変わる激動の中、旧武士階級の士族達は苦難の連続でしたが、青森では「りんご」が士族達の活路を開いたと言われています。

日本政府から西洋りんごの苗3本が配布されたのは明治8年のこと。
植栽を担当した県庁職員で旧弘前藩士の菊池楯衛は「西洋りんごは貯蔵すれば一年余り持つ」と知って、長期保存できなかった日本のりんごとの違いに驚きます。
それから菊池はアメリカ人農業技師からりんご栽培の技術を学び、東北各地を訪ね歩きました。
青森の気候風土がりんご栽培に適していることを確認した菊池は、懸命に研究と努力を重ね、士族や農民にも栽培技術を教え広め、惜しみなく大量の苗木を分け与えたのです。

「りんごを育てる者は自分に欲を持ってはならない」

菊池はこの言葉をいつも口にして「良いりんごを作るには人づくりから」が信念であったと言われます。
高い志で果敢に挑んだ菊池の姿は、当時の士族達をどれほど鼓舞したことでしょう。
今日、青森県は日本一のりんごの産地となっています。

いよいよ来年は改元の年。
菊池がそうであったように、時代の節目こそ新たなことに挑戦できるチャンスかもしれません。
新年も素晴らしい一年になりますように。

2018年12月22日「サンタクロース試験」

サンタクロースは本当にいるの?いないの?
それは幼い子どもにとって永遠の謎ですが、サンタとして公式に認定する国際サンタクロース協会なるものがあります。

この協会のサンタになるには条件があります。
まず結婚していること。子どもがいること。そして体重がサンタの衣装を着て120kg以上あること。
この条件を満たした上で、次は実技試験が待っています。

試験会場はデンマークのコペンハーゲン。
受験者はどこの国でも、自宅から試験会場までずっとサンタの衣装で移動することが義務づけられています。
そして試験はまず実技。
50mを走り、梯子で煙突を登って家の中に入り、暖炉から出たらプレゼントをテーブルに置き、用意されたクッキーとミルクを口にして、再び煙突から外に出て50m走る。
この一連の運動を2分以内でできれば合格なのです。
次の試験は協会の長老サンタによる面接。
デンマーク語か英語で自己紹介のスピーチをするのですが、受験者は自分の国の伝統や文化に合わせたサンタの衣装を自作したものを披露し、その出来映えも審査されます。

これらの試験をすべてクリアし、晴れてサンタとして公認されたのは世界中で約130人。
そのうちアジア地域にいるのはただ一人。その国は...日本です。
彼らは クリスマス・イブを家族と一緒に過ごすことのできない小児病院や福祉施設にいる子どもたちの元を訪問し、プレゼントを届けています。

2018年12月15日「初めての電話」

明日12月16日は電話創業の日。
明治23年のこの日、東京と横浜の間で日本初の電話事業が始まりました。
初めての電話に加入したのは東京215名、横浜42名。
その一人一人に1番から順に番号を振った名簿が日本初の電話帳です。

現代では電話をかける相手の番号ボタンを押したり、昭和の時代ではダイヤルを回せば、自動的に相手に通じるのですが、このときの電話機にはボタンもダイヤルもありませんでした。
ではどうやって電話をかけるのか?
それは電話交換手を介するのです。

まず電話機に付いている小さなハンドルを2、3回くるくる回すと、その音が電話局に伝わって、電話交換手が出ます。
そこで通話したい相手の番号を交換手に告げ、一旦受話器を置きます。
そこで交換手は相手先の電話を呼び出し、「あなた当てに通話の申し込みがありますが、出ますか?」と伺いを立てます。
そこで相手が了承すると、交換手は交換台にずらりと並ぶ電話回線の端末から通話する両者の端末を選び出し、それをケーブルで繋ぎ、通話申込者を呼び出して「では、お話ください」と伝える...
こうして、やっと相手に電話が繋がるのです。

電話交換手は7人の女性が務めていましたが、その声や対応の良さに惚れ込んで通話の申し込みついでに長々と世間話をしたり、なかにはお見合いを申し込む人もいたそうです。
いつの時代も爽やかな応対は気持ちがいいものですね。

2018年12月8日「家事・育児に勲章を」

夫婦の間で、妻に代わって家事や育児をする夫を「ハウスハズバンド」といいます。
日本では女性の社会進出が高まった1990年代から注目されていきましたが、このハウスハズバンドを最初に世界に向けて発信したのが、ジョン・レノンです。

ビートルズが解散した後もジョンはミュージシャンとして活躍していましたが、1975年から5年間、公の場から姿を消します。
音楽活動を止め、家庭の中で料理などの家事をし、生まれたばかりの息子にミルクを飲ませたりオムツを替えたりするハウスハズバンドになったのです。
当時は男性が仕事をし、女性が家事をするのは常識。
そこに堂々と家事・育児に勤しむジョンの姿は、社会に一石を投じました。

ある日のこと。ジョンは家族のためにパンを粉からこねて作りました。
やっと焼き上がったパンを食卓に置くと、皆が手を伸ばしてあっという間に食べてしまいました。
その様子を眺めながらジョンはしみじみと「世の中の女性は大変だ。パンを一生懸命作ってもすぐになくなってしまって、賞ももらえない」とつぶやいたそうです。
そんなハウスハズバンドを5年間続けた後、ジョンは再び音楽を始めます。
その新作が発表された直後の1980年12月8日、彼は凶弾に倒れました。

きょうはジョン・レノンの命日。
ジョンの代表作『イマジン』を世界中のファンが口ずさんでいることでしょう。
家族を大切にするジョンを思い浮かべながら・・・。

2018年12月1日「日本初の映画スター」

きょう12月1日は「映画の日」。明治29年のこの時期に日本で初めて映画が上映されました。
でもそれは、箱の中に写る簡単な映像を一人ずつ覗き込むものです。
スクリーンに映写する映画が登場したのはその1年後。
多くの観客を対象とした活動写真を全国に広めた人物が、駒田好洋です。

22歳の駒田は料亭で3人の芸者の踊りを撮影して東京の歌舞伎座で公開。
これが日本初の商業映画です。
翌年には実際に起こった事件を元に「稲妻強盗」という作品を製作。
これが日本初の劇映画となりました。

映画を作るだけでは飽き足りなかった駒田は、日本に映画を広めようと、27年の歳月をかけて北海道から鹿児島まで全国を巡業し、上映会を催します。

フィルムと映写機、スクリーンを持ち運んで各地の芝居小屋や集会所を訪ねるのですが、駒田はブラスバンドも引き連れていきました。
町に入るときには燕尾服にシルクハット、白手袋の駒田がバンドを指揮しながら行進。そのパフォーマンスで町中の人を集めたのです。

また彼は映画の上映中には万事大げさな説明をして愛嬌たっぷり。
「すこぶる非常な」という文句を頻繁に使っていたので、「すこぶる非常大博士」
と呼ばれる人気ぶりでした。
映画俳優がまだいない当時、 日本初の映画スターは駒田好洋だったのかもしれません。

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