2018年11月アーカイブ

2018年11月24日「捨松の選択」

明治新政府の官費留学生として渡米した山川捨松が11年もの留学生活を終えて帰国したのは明治15年。
アメリカの名門大学を優秀な成績で卒業し、フランス語やドイツ語も堪能な聡明な女性に成長した捨松でしたが、待ち受けていたのは、働く場もなく、二十歳過ぎは婚期を逃した売れ残りとする明治社会でした。

そこへ持ち上がったのが、伯爵で陸軍トップの大山巌との縁談でした。
スイスに留学し語学堪能であった大山。
ところが、かつて会津藩の家老の娘であった捨松は、戊辰戦争で官軍の猛攻撃を受けた際に、家族と城に立て籠もって戦いましたが、このとき西郷隆盛の従兄弟で薩摩藩の砲兵隊長として城を攻撃したのが大山だったのです。

山川家は直ちに縁談を断ります。
しかし、捨松にひと目惚れしたという大山が粘りに粘り、捨松がデートを提案して二人は会うことに。
日本語が心許ない捨松と薩摩なまりの大山、しかも年の差18歳。
そんな二人が心を通わせたのは、なんと英語による会話でした。
そして大山の人柄に惹かれた捨松は「家族に反対されても」と結婚を決意するのです。

伯爵夫人となった捨松は鹿鳴館の華と謳われ、大山を支えて大活躍。
明治維新がもたらした試練と出会いは、新たな夫婦の姿を描き出したのです。

2018年11月17日「ハンカチの秘密」

昭和54年11月18日、陸連公認の世界初の女性だけのマラソン「第1回東京国際女子マラソン」が開催されました。
当時はまだ女性がフルマラソンを走ることができるのか半信半疑だった時代。秋深い小雨の都心を10カ国・50人の女性ランナーが駆け抜けたのです。

世界のトップアスリートたち尻目に前半から積極的に飛び出し、当時としては好記録の2時間37分48秒で優勝したのは、イギリスのジョイス・スミス選手。
2人の子供を持つ42歳のママさんランナーでした。

彼女は、初めから終わりまで中継テレビに映り続けますが、その右手にはなぜか白いハンカチが握られていました。
そのハンカチをときどき口に当てながら走り続けます。
その理由をアナウンサーが推理します。
「汗を拭っているのでしょうか」
「ひょっとして元気の出る薬が染みこんでいるのではないでしょうか」
「どんな秘密があるのでしょうか」

優勝インタビューで白いハンカチの秘密を尋ねられたスミス選手は、こう答えたのです。
「私はマラソンランナーとして世界のいろいろな道路を走らせていただきます。
でも長時間走っていると口の中に唾がたまってきます。
その唾を吐いて道を汚すのが申し訳なくて、いつもハンカチを持って走り、唾を拭き取るのです。
このハンカチには何の秘密もありません」
走りだけではなく、礼儀やマナーも一流のランナーだったのでした。

2018年11月10日「お金も名誉もいらない」

ノーベル賞は20世紀に創設されましたが、それ以前に何度もノーベル賞に値する業績を挙げていた人物がいます。

その人の名はヘンリー・キャベンディッシュ。
18世紀・英国の学者で、水素を発見したことや、水が水素と酸素の化合物であることを発見した人物として知られています。
が、彼の死から70年後に公表された研究記録からは、驚くべき事実が明らかになりました。

たとえば電気に関してはクーロンの法則やオームの法則。
物理化学に関してはシャルルの法則やドルトンの法則。
これらは発見者の名を冠した法則ですが、じつは彼らより先に、そのすべてをキャベンディッシュは生前に実験を続けて導き出していたのです。

なぜキャベンディッシュはこれらの研究成果を発表しなかったのか。
彼は莫大な資産を受け継いだ貴族で、生まれつき高い社会的な地位にいたため、お金も名誉も必要としていませんでした。
有り余るお金と時間を研究に費やし、研究以外のこと、つまり、研究成果を発表することさえも興味がなかったのです。

そんなわけでノーベル賞のような名誉に無縁だったキャベンディッシュ。
ですが、彼の遺産を基にケンブリッジ大学に創設された「キャベンディッシュ研究所」から31人ものノーベル賞受賞者が輩出され、結果的に最高の名誉を手にしたのでした。

2018年11月3日「家具の音楽」

『いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ』...この謎に満ちた言葉は、じつはクラシック音楽の曲のタイトル。
作ったのはフランスの作曲家エリック・サティです。

サティは音楽会の異端児。
クラシック音楽はバロック、古典派、ロマン派と、時代によって変化してきましたが、その伝統の中で積み重ねてきた形式やルールにまったく縛られない作曲をしたのが、サティです。
若い時分、酒場のピアノ弾きとして暮らしていた経験から、客の邪魔にならない演奏、まるで部屋の家具みたいに当たり前のようにそこにある音楽をめざし、自らの音楽を「家具の音楽」と呼んでいました。

とあるコンサートホールのロビーの片隅にピアノが置かれていました。
ホールではオーケストラの演奏会が行なわれています。
やがて休憩時間になると聴衆たちがぞろぞろとロビーに出てきて、演奏の感想を述べあったりしてがやがや会話をしています。
ロビーのピアノの前にいつの間にか座ったサティは、ピアノを弾き始めます。
すると、その調べの素晴らしさにロビーにいる全員が会話をやめて、サティの音楽に聴き入りました。

その様子を横目で見ながら、ピアノを弾くサティはこう叫んだそうです。
「みんな、音楽を聴くんじゃない!お喋りを続けるんだ!」
変わり者と呼ばれたサティでしたが、今まで聞いたことのない新しい響きは、西洋音楽に多大な影響を与えたのでした。

アーカイブ