2018年9月アーカイブ

2018年9月29日「北加伊道」

かつて蝦夷地と呼ばれた北の大地が、明治政府によって北海道と改められてから150年。

先月、札幌市で行われた記念式典はアイヌ民族の伝統芸能が披露されるなど、北海道の文化や歴史を未来に受け継いでゆく願いが込められたものでしたが、その思いを「北海道」の名に込めていたのが名付け親の松浦武四郎でした。

幕末、アメリカやロシアの脅威が高まる中、独自に蝦夷地の探検を行い、その実績によって幕府から蝦夷取調御用御雇、明治政府からも蝦夷地開拓御用掛を拝命するなど、広大な大地に分け入って調査を続けた松浦は、アイヌの人々との交流を深め、次第に彼らの幸せな暮らしを願うようになったと言われます。

そして明治政府に蝦夷地の新しい名称を建議する際に、六つの候補のひとつとして「北加伊」を提案するのです。
「ホッカイ」の「カイ」とは、アイヌの長老から教えられた言葉で「この地で生まれたもの」という意味を持っていました。
これをもとに「北海道」の名が誕生したのです。

それから150年。開拓の苦難の年月を重ねて豊かに成長した北海道は、今、震災という困難に直面しています。
この地で生まれた人々、この地に暮らす人々の幸せを未来につなぐために何が出来るのか、松浦は私達に問いかけているかも知れません。

2018年9月22日「光の魔術師」

肉眼では見えない微生物を最初に発見したのは17世紀のオランダ人・レーウェンフックです。

アカデミックな教育を受けた学者ではなく、織物商人だった彼は、商売柄、毛織物にほつれや虫食いがないか、いつも虫眼鏡でチェックしていました。
そのことから次第にミクロの世界に興味を抱き、もっとよく見える虫眼鏡を研究。とうとう独学で200倍率の顕微鏡をこしらえてしまったのです。

さあ、そうなったらもう商売はそっちのけで、手当り次第にさまざまなものを顕微鏡で観察しては、それをノートに描き写す毎日。
そして一滴の雨粒の中に動き回る微生物を発見したのです。

それまで想像の中でしか存在しなかった微生物の姿を発見した功績でレーウェンフックは英国の王立協会に入会。
オランダの織物商人がロンドンの一流科学者の仲間入りを果たしたのでした。

ところで、彼が生まれた同じ町で、彼と同じ年に生まれた人物がいます。
それは光による巧みな表現を特徴に持つことから『光の魔術師』と言われる画家のフェルメール。
その作品のひとつ『天文学者』のモデルはレーウェンフックだといわれています。

不思議にも光を操ってミクロの世界を見たレーウェンフック、光の世界をカンバスの上に再現したフェルメール。
光でつながっている二人は親友だったという説もあります。

2018年9月15日「受け継がれる敬老の日」

敬老の日は9月の第3月曜日ですが、昭和41年に国民の祝日になった当初は9月15日でした。
なぜ9月15日だったのか。

戦後間もない昭和22年。兵庫県に野間谷村という小さな山村がありました。
当時の村長は35歳の門脇政夫さん。
彼は「戦争で一番苦労したのはお年寄り。
村ぐるみで労ってやらねば」と考え、農閑期で気候的に過ごしやすい9月15日に村中のお年寄りを公会堂に招き、ご馳走でもてなしたのです。

翌昭和23年、国民の祝日に関する法律が施行。
こどもの日と成人の日は祝日になりましたが、お年寄りに関しては候補に挙りませんでした。
そこで門脇村長はこの年の敬老会で、9月15日を「お年寄りの日」と定めて村独自の祝日にし、それと同時に兵庫県下の各市町村に働きかけていきます。
昭和25年、全国に先駆けて兵庫県が「お年寄りの日」を県の記念日に制定。
そして今度は、兵庫県が全国の都道府県に働きかけていったのです。

昭和41年、国民の祝日に関する法律が改正され、ついに「敬老の日」が国民の祝日に加えられました。
それが、野間谷村の敬老の日を受け継ぐ9月15日。
平成になって敬老の日は9月第3月曜日になりましたが、野間谷村を引き継ぐ兵庫県多可町では、今もがんとして9月15日に敬老会を催しています。

2018年9月8日「言葉の海」

この国で普通に使われている言葉を集め、説明し尽くす...日本で最初の国語辞典を作ることを命ぜられたのは、当時の文部省に勤めていた大槻文彦。
明治8年のことです。

大槻が抜擢されたのは、彼の祖父が蘭学者、父が儒学者、そして彼自身が英語を修めていたことで、辞書作りに必要な和漢洋の知識が期待されてのことでした。
しかし担当になったのは彼一人。
大槻がたった一人で辞書作りをすることになったのです。

ありとあらゆる学術書を漁り、一語ずつ言葉を採取していく。
街中で耳にした言葉を手帳に書きとめる。
専門家をつかまえて質問攻めにする。
地方の方言を調べるために遠出をする。
こうした地道な努力を来る日も来る日も続け、17年の歳月を費やしたのです。

そして原稿の最終チェックが50音順の「や」行になったとき、大槻を思わぬ悲劇が襲います。
最愛の娘が病死してしまい、その一か月後、今度は妻が腸チフスで亡くなってしまうのです。
そのとき、大槻は「ら」行の或る言葉をチェックしていました。
それは「露命」...「露のいのち、はかなきいのち」と大槻が説明した言葉です。

明治22年、日本で最初の国語辞典が刊行されました。
その辞典の名前は、言葉の海という意味の「言海」。
大槻は広い広い言葉の海をたった独りでもがき苦しみながら17年間泳ぎ切ったのです。

2018年9月1日「知らない間に大ヒット」

サッチモ...ルイ・アームストロングの歌と演奏で有名な曲のひとつが『ハロー・ドーリー』です。
1964年にシングルレコード盤で発売されたこの曲は全米No.1を記録し、当時63歳のサッチモの名が世界中に広まったのです。
ところが、サッチモ自身は『ハロー・ドーリー』の大ヒットを知らなかったというお話。

サッチモのバンドがツアーに出てコンサートをすると客が口々に「ハロー・ドーリー」と叫ぶようになりました。
「ハロー・ドーリーって何だい?」とサッチモがバンドのメンバーに聞くと
「この間スタジオでレコーディングした曲かも」。
その当時のサッチモたちはスタジオで渡された楽譜を見ながら次から次に数多くの曲を演奏して録音したら、それでおしまい。
困ったことにバンドの誰もが『ハロー・ドーリー』のメロディさえも憶えていないのです。

ツアーが進むにつれて客の「ハロー・ドーリー!」の声はどんどん高まっていきます。
これ以上その声を無視して演奏しないわけにはいきません。
慌てたマネージャが町中のレコード店を探し回って、やっと1枚のシングル盤を見つけてきました。
このレコード、つまり自分たち自身が歌い演奏した『ハロー・ドーリー』をバンド全員で必死になって聴き込み、その晩のコンサートに間に合わせたというわけ。
もちろん拍手喝采の嵐でした。

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