2013年12月アーカイブ

12/29「もち米が結んだ絆」

時代が変わった今でも、日本の年越しに欠かせないものといえばお餅。
2年前に、そのお餅で心の絆を結んだ小学校があります。

佐賀県武雄市の橘小学校。
生徒達が泥んこになって田んぼ作りや米作りに取り組む小学校では、東日本大震災が発生した年の12月、子供達から「被災地に贈りたい」という声が上がり、宮城県気仙沼市の浦島小学校に自分達で育て収穫したもち米を、大島小学校にお餅を送り届けたのです。
「一緒に乗り越えよう」「良いお正月を」などの激励の手紙も添えられました。

大島小学校に贈ったお餅は橘小学校の5年生みんなで心をこめて餅つきをしたものでした。
災害で児童数が三分の一に減ったという浦島小学校では、届いたもち米で、運動場の仮設住宅の皆さんと子供達が一緒に餅つきを楽しんだそうです。

災害の爪跡が深く残っていた12月に、年越しの温かいひとときを届けた橘小学校の子供達。
実は、被災地のために何かしたいと思ったのは橘小学校だけではありませんでした。

この年、米作りに取り組む各地の小学校も続々と被災地にもち米を贈り、多くの人々に喜ばれたのです。
そして、橘小学校と大島小学校など、もち米から始まった子供達の交流は、今も途切れることなく続いています。

12/22「700個のコンビニおにぎり」

平成22年の大晦日から正月にかけて、山陰地方に記録的な大雪が降りました。 この豪雪で鳥取県の国道9号線では、タンクローリーのスリップをきっかけに約1000台の車が雪に埋もれて立ち往生。
およそ2000人が車中に閉じ込められたまま長時間身動きが取れず、寒さと空腹に苦しむ事態になりました。

その国道沿いにある コンビニエンスストアに商品を運ぶ配送センターでは、大雪のために配送トラックを出すことができず、各店に届けるはずのおにぎりが留め置かれていました。

それを眺めていた一人の社員が、
「このまま届けられないなら渋滞で困っている人に配れないか」
と本部に電話で相談。
了承を得て、1月2日の午前0時から2時間かけて、約700個のおにぎりを雪に埋もれた約200台の車に配って歩いたのです。

この様子を バスで帰省中に渋滞に巻き込まれた乗客の一人がツイッターで次のようにつぶやきました。
「コンビニ配送の人が、店に届けられないからと大量のおにぎりを窓から差し入れてくれて、沸く車内。今年初のちゃんとしたご飯・・・ありがとうございます。美味しかったです」

このつぶやきがネットで広がり、雪の中で寒さに凍える人たちの心を温めた小さなニュースは 全国に知られていったのです。

12/15「バスガイド事始め」

12月15日は「観光バス記念日」。
大正14年のこの日、日本に初めて観光バスが走ったことによるものです。

観光バスにはバスガイドさんが添乗していますが、初めて女性バスガイドが登場したのは昭和3年。大分県別府市でのことです。

別府観光の父と呼ばれる油屋熊八。
彼はホテルの経営者でしたが、別府を国際的な観光地へと発展させようと、だれも思いつかないような奇抜なアイデアを次々に実行しました。
観光バスもそのひとつ。
まだ東京にも大阪にもなかった25人乗りの大型バスを手に入れ、別府温泉の地獄巡りに走らせるのですが、そのバスにうら若い女性が乗って案内をしたのが、バスガイドの始まりです。

青いブラウス、グレーのギャザースカートに白ネクタイ と、当時まだ珍しい洋服スタイルのバスガイド。しかも名所案内はすべて七五調。
その名調子がたちまち大評判となり、日本中から別府に観光客を呼ぶようになりました。
バスガイドの養成は厳しく、七五調の案内の暗記から姿勢、言葉遣いなど徹底的に訓練されましたが、当時の若い女性憧れの花形職業で、なんとバスガイドの案内をそのまま吹き込んだレコードまで出たほどでした。

油屋熊八の流れを汲むバス会社は、その後も別府で観光バスを運行していますが、地獄巡りコースは、いまも伝統の七五調で案内をしています。

12/8「ロイヤルミルクティー」

ロイヤルミルクティーは、熱いミルクで直接茶葉を煮出す紅茶です。
軽井沢のとある老舗ホテルのカフェ。
ここのメニューにロイヤルミルクティーが登場したのは1976年のことです。

この年の夏に軽井沢を訪れていたのが、ジョン・レノン。
家族とともにこのホテルに滞在していました。
当時の彼は音楽活動を休止して子育てに専念中。
軽井沢でも幼い息子を自転車に乗せて買物に出かけたりと、すっかり町に溶け込んでいたそうです。

そんな暮らしの中でジョンが毎日のように利用していたのが、ホテルのカフェ。彼はいつもミルクティーを注文していましたが、ある日「ロイヤルミルクティーは出来るかい」と尋ねました。
しかし、あいにくメニューにそれはありません。
ウェイターが申し訳なさそうにそのことを告げると、ジョンはにっこりしてこう言ったそうです。
「じゃあボクが美味しいロイヤルミルクティーの作り方を教えてあげるよ」

こうしてジョン・レノン直伝のロイヤルミルクティーがメニューに加えられたのです。

ジョンはその後4年間の夏を軽井沢で過ごしましたが、1980年のきょう12月8日、帰らぬ人となりました。
しかし、彼が遺した音楽と同じく、このロイヤルミルクティーも軽井沢の人たちの心にいまも語り継がれています。

12/1「日本初の映画スター」

きょう12月1日は映画の日。
明治29年に日本で初めて映画が一般公開されたことを記念する日です。
映画製作の始まりに合わせて映画俳優も誕生しますが、その中で日本最初の映画スターとなったのが尾上松之助です。

旅芸人から映画俳優となった彼は、明治42年から大正15年までの17年間に京都の撮影所で1000本以上の作品に主演。
スクリーンで大きく目を見開いて見得を切る彼の演技は大人気で、「目玉の松ちゃん」と全国のファンに親しまれました。

しかし一方では、文化人たちから
「松之助の映画は芸術性がなく下劣だ」と蔑まれました。
また、素顔の松之助は真面目で几帳面な人でしたが、それだけに金銭に細かく、徹底した質素倹約の生活。
周りからは「大スターで金持ちなのに、出す物は舌を出すのも嫌がるケチ松」と陰口を叩かれたりもしました。

でもじつは彼はその裏で、新聞を読んで災難に遇った人たちの記事を目にする度に、高額な義援金を送っていました。
また、京都で困窮している人たちのための公設住宅の建設や学校建設、赤十字社などへも巨額なお金をたびたび寄付。

それは、貧しい境遇に育った松之助が京都で映画スターとなったおかげで裕福になった、その恩返しだったのです。

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