2014年1月アーカイブ

1/26「絆のジャンプ」

長野オリンピックといえば、スキージャンプ団体で日本チームが金メダルに輝きましたが、それを支えたのが25名のテストジャンパーでした。
ジャンプ台の状況を確認するためにジャンプを行う選手で、その結果から審判団は競技の実施を判断するのです。

競技当日、長野は悪天候に見舞われ、金メダルを期待されていた日本チームはメンバーの原田が猛吹雪の中、失速。
1本目のジャンプは4位に終わります。
試合を続行するのか、しないのか。
テストジャンパーが飛ぶことになります。
誰か転倒すれば、飛距離が伸びなければ中止決定です。

「日本になんとしてもメダルのチャンスを!」
テストジャンパー達はその思いを胸に次々に飛び始めます。
雪が降り積もる前に間を開けずに飛ぶことで助走路を固め、次の人を滑りやすくするためでした。

最後に飛んだのは長野出身の西方仁也(にしかた・じんや)。
なんと彼は、その4年前のリレハンメルオリンピックで135mの大ジャンプで日本を銀メダルに導いた選手でした。
ふるさと長野のオリンピックに出場できなかった西方の飛距離はK点超えの123m。
競技は再開され、原田が137mの大ジャンプを決めるのです。

原田が「みんなでつかんだ」と涙で語った金メダル。
それはスキージャンパー達の固い絆が勝ち取ったものでした。

1/19「フロリダの雪だるま」

アメリカで「サンシャインステート」・・「日光の州」と呼ばれているのが、フロリダ。
亜熱帯から熱帯の気候でぽかぽかと暖かく、この州で生まれ育った人は雪を見たことがありません。
ところが、1977年1月19日にフロリダ州の広い範囲で雪が観測されました。
初めて雪を見たフロリダの人たちは大騒ぎ。
プレーナ・トーマスという女性もその一人です。

彼女の家の周りには5センチほど雪が積もりました。
驚いたプレーナさんはその雪景色を何枚もカメラに収めましたが、それだけではなく、雪をかき集めて小さな雪だるまを作ったのです。

初めて見た雪。
初めて作った雪だるま。
フロリダに雪が降った日の大切な思い出にと、彼女はその雪だるまを冷凍庫に保存することにしました。

それから37年後。
プレーナさんの雪だるまは今も肉や野菜と一緒に冷凍庫に住んでいます。
彼女は一度引越しをしましたが、その時は雪だるまをアイスボックスに入れて慎重に運んだそうです。
すっかりお婆ちゃんになったプレーナさんにとって、今や雪だるまはペットのような存在。
時々彼女は遊びに来た友だちに雪だるまを見せてあげますが、冷凍庫の扉を開けた時に雪だるまに向かって「Nice to see you」--「会えて嬉しいわ」と言うところを、にっこり笑って 「Ice to see you!」 と洒落るそうです。

1/12「ヘンデル伝説」

18世紀にヨーロッパで花開いたバロック音楽。
その中でバッハと並び称される作曲家が、ヘンデルです。

彼はバッハと同じドイツ生まれですが、人生の大半をイギリスで暮らし、オペラやオラトリオなどで多くの名曲を遺しました。
肖像画で見るヘンデルは堂々たる体躯で威厳ある顔立ちをしていますが、そのイメージ通り彼はかなりの巨体で、いつも不機嫌な顔をした頑固な気性の持ち主でした。

しかし彼には悪意や意地悪な心は何もなく、くすりとも笑わず不機嫌そうな顔のまま、天性のウイットとユーモアで周りの人たちを楽しませるのが特徴だったようです。
また、その巨体にふさわしく、大食い・・・大食漢としても知られていました。

ある晩のこと。
作曲の大きな仕事が一段落したので、ヘンデルはロンドンの あるレストランに赴き、そこでたっぷり数人前の料理を注文。
給仕は恭しく大きなテーブルをヘンデルのために設えますが、いつまで経っても一向に料理が運ばれてきません。
待ちくたびれたヘンデルがいらいらして給仕に
「いつになったら料理が出てくるのかね」 と尋ねます。
すると給仕はこう答えました。
「はい、お連れの皆様方をお待ちしております」。
それを聞いたヘンデルは不機嫌な顔のまま、こう叫んだそうです。
「私が皆様方だよ!」

1/5「ロケットを愛する町」

去年の夏、鹿児島県肝付町の内之浦宇宙空間観測所から新型ロケット「イプシロン」が飛び立ちました。
このロケット基地が出来たのは昭和37年。
当時、大隅半島で陸の孤島といわれた旧内之浦町の山を切り開いて建設されました。

その道路工事が人手不足で困っていると聞いて、鍬やスコップを携えて駆けつけたのが、町の婦人会の女性たち。
基地の落成式でも、仕出し屋もない僻地だからと、彼女たちは出席者200人分の弁当を作りました。

その後も山道を歩いて差し入れを届けたり、下宿屋をやったりと、親身になって基地の職員の世話をします。
また、失敗続きの打上げ実験で税金の無駄遣いと世間から非難された際には、町の人たちは成功を願って神社にお百度参りしたり、千羽鶴を折って基地に届けたりして激励しています。

昭和45年に日本初の人工衛星が打ち上げられた時、その衛星は地元の町への感謝の気持ちとして「おおすみ」と命名されました。
それ以来、数多くの衛星打上げで輝かしい成果を上げてきた内之浦宇宙空間観測所は「世界一地元の町に愛されるロケット基地」といわれています。

次世代ロケットとして大きな期待が寄せられるイプシロンは、これからも地元の人たちと二人三脚で打ち上げられていくのです。

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