「彼女は決して美しくはありません。しかし、ハンサム、美しい行いをする人だということを、私は知っています」
同志社大学を創始した明治の教育者、新島襄(にいじま・じょう)がアメリカ留学時代の恩人に手紙で婚約を報告した際の言葉です。
婚約者の八重(やえ)は会津藩出身で、明治新政府軍との戦いでは銃を持って奮戦した男勝りでした。
いつも凛として勇気ある決断力や行動力をもつ八重を、襄は「ハンサム」という言葉で讃えたのです。
夫婦のあり方にも西洋の新しい価値観を求めた襄の期待に応え、夫を「襄」と呼び捨て、人力車に肩を並べて同乗する八重に、人々は好奇の目を向け「悪妻」と噂しますが、八重が臆することはありませんでした。
ところが病弱だった襄は47歳の若さで亡くなり、結婚生活はわずか14年で終わりを迎えます。
しかし、それからの八重はさらにハンサムでした。
襄の亡くなった年に日本赤十字社の正社員となり、日清日露戦争で看護婦として救護活動に奉仕し民間の女性として初めて勲章を受章。
茶道(ちゃどう)に取り組んで女性の職業として開拓するなど、人生の後半も精力的に活躍しています。
「ハンサム」な生き方を貫いた八重。
86歳で亡くなるまで、八重はいつも最愛の夫とともに歩み続けたのです。