2012年12月アーカイブ

12/30「豪雪の中の善意の記憶」

平成22年の大晦日から、翌、元日にかけて、鳥取県では記録的な豪雪となりました。
そんな中、国道9号で起きた事故を発端に大渋滞が発生して1,000台もの車が雪の中で立ち往生。
JR山陰本線では雪による倒木で列車が立ち往生する事態となったのです。

鳥取県知事は自衛隊に出動を要請し救援活動を開始しますが、実は、その何時間も前から、国道沿いや駅近くに住む町の人々が、思い思いに救援を始めていたのです。
一台一台、車の窓をノックして安否確認をする人、温かい飲み物を届ける人、赤ちゃんのために駆け回って粉ミルクを調達しミルクを作ってあげる人。
「トイレあります」の看板を次々に掲げるお店や住宅。
公民館を開放して観光バスの乗客を受け入れたり、妻が妊娠中と知って、ご夫婦を一晩泊めた家もありました。
食堂やパン屋さんでは、お店でたくさんのお米を炊いて、地域の人々とおにぎりをつくってドライバーに配り、駅近くのマーケットでは元日の休業日に、列車の乗客130名分のおにぎりを炊き出し、お店のお米が足りなくなると、従業員が自宅から持ってきておにぎりを作ったのだそうです。

見ず知らずの人のために、年越しの団らんのひと時をなげうって懸命に尽くした人々。
後日、全国からたくさんの感謝の手紙が寄せられました。
記録的な豪雪は、災害に負けず心を結んだ温かな善意とその大切さを、
人々の胸に深く残したのです。

12/23「サンタはいるの?」

1897年。アメリカの新聞社に一通の投書が届きました。
その内容は次のようなもの。「本当のことを教えてください。サンタクロースはいるんですか?」

投書を出したのは、ニューヨークに住むバージニアという8歳の女の子。サンタの存在を信じる彼女は、ある日学校で友だちにサンタの存在を否定され、ショックを受けていたのです。
新聞社の編集長は、この質問に対して社説で答えることにしました。
選ばれたのは、ベテランの論説委員フランシス・チャーチ。
彼は一日悩み抜いた末に、バージニアの質問に答える形で次のような主旨の社説を発表しました。

「思いやりや人を好きになる心のように、目には見えなくても存在するものはいっぱいある。サンタクロースも見えないけど、存在するのです」

発表されたこの記事は一大反響を巻き起こし、以後、新聞社では読者の求めに応じて毎年クリスマスの時期にこの社説を再掲載。この新聞社は1950年代に消えてしまいましたが、いまでも全米ジャーナリズム史上最も有名な社説として語り継がれています。

そして投書を出したかつての8歳の女の子バージニアは、大人になると学校の教師になり、老後は孫たちに囲まれて幸せに暮らし、1971年に81歳の生涯を閉じました。
そのとき、地元の新聞ニューヨークタイムスは第一面に「サンタの一番の友だちバージニア亡くなる」という追悼記事を掲載しています。

12/16「鳥人幸吉」

エンジンもプロペラもない飛行機―グライダーが初めて飛んだのは19世紀末のドイツとされていますが、じつはそれより100年ほど前に同じ方法で空を飛んだ日本人がいます。
浮田幸吉。岡山藩の城下町で襖や提灯などを作っていた腕のよい表具職人です。

幼いころから空を飛ぶことを夢見ていた彼は、トンビやタカが羽を広げたまま滑空している姿を見て、「鳥の羽と胴体の大きさの比率を人間に当てはめて翼を作れば、空を飛べる」と考えました。そして表具職人として自慢の腕で木や竹の骨組みに紙や布を張り、大きな翼を作ったのです。

それにぶら下がって幸吉が飛んだのは、岡山の町を流れる旭川に架かる京橋の上。その飛行記録は、距離10m、時間にして10秒と伝えられます。浮田幸吉そのとき29歳の快挙。ところが、この飛行実験を見ていた人たちが「天狗が現れた」と大騒ぎになって、幸吉は役人に捕われます。
ときの岡山藩主は、城下を騒がせた罪として幸吉を所払い―岡山から永久追放したのです。
その後、幸吉は静岡に移り住み、岡山に戻ることなく生涯を閉じました。

時は流れ平成9年。この歴史を知った岡山の有志が、幸吉の名誉回復を企画。岡山藩主の子孫の方によって浮田幸吉の所払いの取り消しを宣言する式典を催したのです。
これを機に、世界で初めて飛行機で空を飛んだ浮田幸吉の名は、ふるさと岡山が生んだ英雄として広まっていきました。
現在、岡山市の旭川に架かる京橋には、幸吉の偉業を讃える石碑が立っています。

12/9「ノーベルの友情」

明日、12月10日はノーベル賞の授賞式。
毎年この日に授賞式が行われるのは、アルフレッド・ノーベルの命日だからです。

ノーベル賞は、アルフレッド・ノーベルの遺言によって、彼が残した遺産の全額を基金にして始まりました。
ノーベルはダイナマイトを発明して近代工業の発展に大きな貢献をしましたが、彼自身はそれが戦争にも使われることに心を痛めていたといわれています。
ノーベル賞の中にノーベル平和賞があるのは、国籍に関わらず平和のために尽くした人を讃えるべきだという、彼の遺言によるものなのです。

ノーベルは幼いころから病気がちで、ほかの子どもたちと元気に遊ぶことはなく、孤独な少年時代を過ごしましたが、高校生になって、やっとボギーというクラスメイトと友だちになります。
この二人を結びつけたのは、ともに病弱で、そして優等生であるという共通点。成績はいつもボギーが1番で、ノーベルは2番と決まっていました。
ところが、ボギーが病気のために数か月間ずっと学校を休みました。
その病気が治って久しぶりにボギーが登校した日に行われた試験。
今度ばかりはボギーではなくノーベルが1番になると、だれもが思っていました。
でも、やはり成績はボギーが1番でノーベルは2番。
じつは、ノーベルは学校で習ったことを事細かにノートに取り、それを、学校を休んでいたボギーに毎日届けていたのです。

優劣を競ったり争ったりすることより、助け合うこと。これがノーベルの友情だったのです。

12/2「夢は実現する」

1990年の今日―12月2日は、秋山豊寛さんがソユーズに乗り込み、日本人初の宇宙飛行を成し遂げた日です。
でも実はその5年前に、もう一人の「日本人」が宇宙飛行を成し遂げていたのです。

その名は日本名で鬼塚承次。ハワイ生まれの日系3世―エリソン・オニヅカさんです。
彼はアメリカNASAの宇宙飛行士として1985年にスペースシャトル・ディスカバリー号で初飛行。
それは国防総省のミッションだったため、活動内容は公表されませんでしたが、オニヅカさんは無重力の船内で地球から持参した箸を使って日本食を食べる実験などを行っています。
彼は国籍こそ日本ではありませんが、自分が日系人であることを誇りとし、自分に続いて祖国・日本から宇宙飛行士が誕生することを願っていました。

祖父母の故郷である福岡県うきは市を訪ねて先祖の墓参りをした際には、地元の中学校で講演をし、「君たちも宇宙へ行ける。努力すれば、夢はきっと実現できるのだから」と生徒たちを励ましています。

しかし、1986年。彼が再びのフライトで乗り込んだスペースシャトル・チャレンジャー号は、打ち上げ72秒後、高度1万6000m上で爆発。他の乗組員6名とともに帰らぬ人となったのです。
それから26年。悲劇を乗り越えて宇宙への挑戦はいまも続いています。
その中でオニヅカさんの夢を追って宇宙へ行った日本人は9人を数え、彼らが積み重ねた宇宙滞在時間はアメリカ、ロシアに次ぐ第3位になっています。

アーカイブ