2012年11月アーカイブ

11/25「母の手紙」

明治時代に、貧しい農家に生まれ、一歳のときに囲炉裏に落ちて大火傷を負い、手に障害を抱えた少年がいました。
深く責任を感じた母親は、息子が学問で身を立てられるようにと、必死に働いて学費を捻出し学校に通わせました。
その姿を見て息子も懸命に勉学に励み、周りの人々の援助もあって、やがてアメリカに留学して医学研究者として国際的な評価を得るまでになります。

息子は読み書きが満足にできない母親のために、アメリカの住所を刻印した判子を送っていました。
あるとき、ひらがなでたどたどしく書かれた手紙が届きます。
「お前の出世には皆たまげました。私も喜んでおりまする。どうか早く来てくだされ。早く来てくだされ、早く来てくだされ、早く来てくだされ、早く来てくだされ、一生の頼みでありまする」
友人から送られてきた写真には、小さく年老いた母の姿がありました。
研究に没頭している間に15年もの歳月が過ぎていたのです。

大正4年、息子は急ぎ帰国し、母のもとに駆けつけます。
この年、二度目のノーベル賞候補になった野口英世の帰国でした。
講演会や歓迎行事に追われる中、英世は喜ぶ母に温かく寄り添い、その姿に周りも涙するほどであったといわれます。

母のためのただ一度の帰国から13年後、英世は黄熱病の研究のため危険を顧みずに赴いたアフリカで、その黄熱病に命を奪われました。
志を果たし、人類のために尽くしたその生涯こそ、息子が母にささげた永い手紙だったのかもしれません。

11/18「山の斜面の葡萄畑」

栃木県足利市の山あいに小さな葡萄畑が作られたのは、昭和33年のこと。38度という急勾配の山の斜面を2年がかりで開墾したのは、知的障害をもつ中学生たちと、その教師たちです。

机の前での勉強が苦手な少年たちが、鉛筆を鋤や鍬に持ち替えての農作業。土を掘り起こし、重い堆肥を担ぐ。カラス追いの空き缶を叩き続ける。炎天下で草刈りをし、秋にはたわわに実った葡萄の房を丁寧に摘み取る―自然を相手の果てることのない作業は、彼らに自らの情緒を安定させ、能力を引き出し、やる気と耐える心を自然に学ばせることになったのです。

やがてこの葡萄畑は、知的障害者が葡萄を栽培しながら暮らして自立をめざす更生施設へと発展していきます。
そして昭和55年。この葡萄畑にワイナリーが誕生しました。
大手メーカーがしのぎを削る中で、素人の集団がワインを作って、果たして売れるのか?と心配されましたが、4年後の秋に醸造した初めてのワイン1万2000本は、地元・足利の町の人たちの応援もあって完売しました。

また、このワイナリーのことを知ったカリフォルニアワインの醸造専門家が応援のため来日して技術指導。品質を高めていった結果、平成12年には九州・沖縄サミットの晩餐会に使われて、一躍有名になりました。

山の急斜面を開墾して半世紀。知的ハンディをもつ人たちが自然と向き合って葡萄を栽培し、ワインを醸造する「ココ・ファーム・ワイナリー」。今年で29回目となる「収穫祭」が、きょう11月18日に葡萄畑で開かれています。

11/11「3ドルの報酬」

『トム・ソーヤーの冒険』で知られるアメリカの作家マーク・トウェイン。彼は純粋な社会正義感を終生もち続け、国民から慕われましたが、一方では頓知を働かせて人を煙に巻く、いたずらっぽい性格でもありました。

マーク・トウェインは17歳で独り立ちし、新聞社の印刷工として働いていましたが、給料は安く、いつも空腹を抱えている少年でした。

ある日のこと、高級レストランの前に立ってショーケースを眺めていたマーク少年。料理を眺めることで食べたつもりになっていたのです。
そこに1匹の見知らぬ犬が現れ、彼のそばにぴったり寄り添ってきました。
するとレストランにやって来た客の一人が足を止め、「きみ、毛並みのよい犬を飼ってるね。私に譲ってくれないか」と持ちかけてきたのです。
「3ドルで譲りましょう」とマーク少年。客は彼に3ドル払うと、犬を連れてレストランに入っていきました。

次に彼の前に現れたのは、きょろきょろと何かを探しまわっている様子の男。どうやら、さっきの犬の本当の飼い主です。
マーク少年は、「もし3ドル下されば、すぐにあなたの愛犬を捜し出してきます」と持ちかけました。
男は喜んで3ドルを彼に与えます。
マーク少年はレストランに入っていき、さきほどの客に「どうしてもこの犬を手放す気にはなりません」と謝り、3ドルを返して犬を連れて店から出てきました。

飼い主は犬と再会できて大喜び。17歳のマーク・トウェインは、良心に恥じることなく、それでもちゃっかりと、3ドルを稼いだのです。

11/4「物理学者と数学者の友情」

昔、スイス・チューリッヒの工業大学にアルベルトという学生がいました。
彼は大学の講義などそっちのけで、自分の興味ある分野の本を読みあさる自己流の勉強。教師には反抗的で、いわゆる問題児の学生だったのです。

こうした学生は普通だったら落第するところですが、同じクラスの級友マルセルという学生が、自分が書いた講義ノートをアルベルトに惜しみなく貸し与えました。
マルセルは、大学の問題児アルベルトがきっと将来、独創的な学者になることを見抜いて、そんな彼を応援したいと思っていたのです。
そのお陰でアルベルトは無事、卒業。そのまま大学に残って物理学の研究に打ち込むつもりでしたが、なにしろ教授たちから疎まれていた学生だったので、その道は閉ざされてしまいました。
職探しに明け暮れるアルベルトですが、なかなか仕事にありつけません。

この窮地を救ったのは、またしても級友のマルセル。彼は父親のつてを使って、スイスの特許局にアルベルトを紹介。この安定した職場で、アルベルトは好きな物理学の研究に没頭することができ、また、職場の特許申請書類の中からさまざまな発明理論や数式を知る機会を得ます。

1905年。26歳のアルベルトは、親友マルセルの助言を得て、この職場から20世紀の物理学の基礎を築いた相対性理論を発表。アルベルト・アインシュタインが誕生したのです。

級友のマルセルとは、数学者マルセル・グロスマン。相対論の研究者たちは3年毎に開かれる国際会議を、彼の名を冠した「マルセル・グロスマン会議」と命名。生涯の親友としてアインシュタインを支えた彼の功績を讃えています。

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