明治時代に、貧しい農家に生まれ、一歳のときに囲炉裏に落ちて大火傷を負い、手に障害を抱えた少年がいました。
深く責任を感じた母親は、息子が学問で身を立てられるようにと、必死に働いて学費を捻出し学校に通わせました。
その姿を見て息子も懸命に勉学に励み、周りの人々の援助もあって、やがてアメリカに留学して医学研究者として国際的な評価を得るまでになります。
息子は読み書きが満足にできない母親のために、アメリカの住所を刻印した判子を送っていました。
あるとき、ひらがなでたどたどしく書かれた手紙が届きます。
「お前の出世には皆たまげました。私も喜んでおりまする。どうか早く来てくだされ。早く来てくだされ、早く来てくだされ、早く来てくだされ、早く来てくだされ、一生の頼みでありまする」
友人から送られてきた写真には、小さく年老いた母の姿がありました。
研究に没頭している間に15年もの歳月が過ぎていたのです。
大正4年、息子は急ぎ帰国し、母のもとに駆けつけます。
この年、二度目のノーベル賞候補になった野口英世の帰国でした。
講演会や歓迎行事に追われる中、英世は喜ぶ母に温かく寄り添い、その姿に周りも涙するほどであったといわれます。
母のためのただ一度の帰国から13年後、英世は黄熱病の研究のため危険を顧みずに赴いたアフリカで、その黄熱病に命を奪われました。
志を果たし、人類のために尽くしたその生涯こそ、息子が母にささげた永い手紙だったのかもしれません。