2010年10月アーカイブ

10/31「日本の銀杏」

秋を彩る紅葉。
なかでも銀杏の黄色はひときわ華やかです。
この銀杏を詠ったゲーテの有名な詩があります。

「これは はるばると東洋から わたしの庭に移された木の葉です」
66歳のときに人妻に贈った愛の歌には一枚の銀杏の葉が添えられていました。
実はこの銀杏は、ドイツ人ケンペルによって日本からヨーロッパにもたらされたものでした。

シーボルトより140年余り前に、長崎のオランダ商館付きの医師として来日したケンペルは、
商館長の江戸参府に随行して二度に渡って将軍綱吉に拝謁するなど、日本の見聞を深めます。
そのケンペルが驚いたのが銀杏でした。
「生きている化石」といわれる銀杏のルーツは2億年余り前にさかのぼり、
恐竜の時代には世界で繁栄していたといわれます。
ところがその後絶滅に向かい、中国の一部でわずかに生き残ったものが日本に伝わったのです。

ケンペルは帰国後、日本の銀杏を紹介し、持ち帰った種、ぎんなんからヨーロッパに銀杏が広がったといわれます。
絶滅したはずの銀杏は、ヨーロッパの人々に驚きとともに迎えられました。
その一人がゲーテでした。
ケンペルによって遠く旅した日本の銀杏はドイツの文豪の心をとらえ、
「銀杏の葉」と題された素晴らしい詩の一節となって、再び日本に還ってきたのです
「あなたはお気づきになりませんか。私も一枚でありながら、あなたと結ばれた二枚の葉であることが。」

ゲーテは深く切れ込みが入った葉を愛する想いにたとえ、銀杏に新たな輝きを与えたのです。

10/24「57名の命を救った非常警笛」

明治36年10月28日午後10時、青函連絡船「東海丸」は函館に向けて、青森港を出港しました。
ところがこの日は吹雪で海は大しけ。
夜半過ぎて船はロシアの貨物船「プログレス号」と衝突します。

船内で指揮をとるのは、船長の久田佐助(ひさださすけ)です。
東海丸が沈没する危険をいち早く察し、5艘の救命ボートに乗客を速やかに誘導しました。
一艘ずつ救命ボートが降ろされると、船長はロープを持ち出して、傾き始めた東海丸に自らの身体を縛りつけます。
「船長も早くボートに!」
船員が慌てて呼びにくると、
「船と運命をともにするのは船長の義務だ。お前はボートに戻って一人でも多くの乗客を助けなさい」と命じました。

時刻は朝5時。
周囲はまだ真っ暗です。
船長は、この大しけでは救命ボートが転覆する恐れがあると判断し、
非常事態を一刻も早く周囲に知らせるため、東海丸に一人残って非常汽笛を鳴らし続けたのです。

やがて汽笛に気がついたプログレス号が現場に引き返し、救命ボートの収容を開始しました。
乗客104名のうち57名が無事に救助されましたが、
もし久田船長も救命ボートに乗っていたら、大しけ、視界不良という悪条件の中で
助けの船を呼ぶこともできず、ほとんどの命は助からなかっただろうといわれています。

このニュースはイギリスでも報じられ、久田佐助は「世界の名船長」と称えられました。
彼の故郷・石川県能登町では、彼が船と運命をともにした10月29日に毎年記念式典を行い、
今なお町民の誇りとして語り継いでいます。

10/17「ケーベル先生」

明治時代の日本では、欧米の先進技術や学問を取り入れるために多くの外国人を招いていました。
ドイツ系ロシア人、ラファエル・フォン・ケーベルもその一人。
彼は明治26年から大正3年まで東京帝国大学に在職し、ドイツ哲学を教えていました。
また、彼はかつてモスクワ音楽院でチャイコフスキーに師事した音楽家でもあったため、
東京音楽大学でもピアノの教師を務め、ときには一般の人たちに向けてコンサートを開いたりもしていました。

ケーベルは、当時の外国人教師にありがちな権威主義に満ちた傲慢不遜な姿勢が一切なく、
自分が教える日本の学生たちを心の底から愛し、
講義以外にも必要な時にはボランティアで学生のためにラテン語の指導をしたり、
自宅に学生たちを招き入れ、食卓を共にして歓談するというような人柄でした。

そんな彼の深い学識と、高潔な人格に感化された学生は多く、
教え子のひとり・夏目漱石は、
著書の中で「大学の中で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、
100人の学生が90人までケーベル先生と答えるだろう」と述べています。

ケーベルは21年間の大学在職を終えた後もそのまま日本に留まり、
晩年は随筆集や『九つの歌』と題する歌曲集を書き残し、大正12年に亡くなりました。
生前はいわゆる「女嫌い」として知られ、生涯独身を貫いたケーベル。
子孫はなく、彼のことを知る教え子たちもやがて世を去っていきましたが、
平成2年に彼が知人に宛てた手紙が発見され、ちょっとした話題になりました。
その手紙には、彼が晩年に作った歌曲集『九つの歌』が、
じつは彼を愛したドイツ人女性の死を悼むレクイエムであることが記されていたのです。
ケーベルが独身を貫いたのは、その彼女の愛に一生涯応え続けたからなのかもしれません。

10/10「飛行機の中のコンサート」

飛行機の出発が遅れて、機内でイライラした経験はありませんか。

今年の8月、中国の上海からオランダへ向かう飛行機は、離陸許可を待ち続けてすでに1時間が経過していました。
機内の中は、次第にイライラした空気が広がります。
しかも、飛行機はいつ出発するのかも分からない状況で、時間だけが過ぎていきました。
すると、乗客の一人が立ち上がり「暇つぶしになれば」と、自分の荷物の中から楽器を取り出しました。

その飛行機には、偶然にもオランダの交響楽団「アムステルダム・シンフォニエッタ」のメンバーが乗り合わせていたのです。
彼らは、北京と上海での演奏会を成功させ、自国のオランダに戻るところでした。
他のメンバーも次々と立ち上がり、バイオリンなどそれぞれの楽器を取り出して、機内の2列の通路に整列。
総勢22名でモーツァルトの楽曲を演奏し始めたのです。

何事が起こったのかと訝る他の乗客たちにも、やがて笑顔が広がっていきました。
機内は一瞬でコンサート会場に変わり、さっきまでの雰囲気が一新。
リラックスしながら耳を傾ける人、突然の出来事をカメラに収める人、
中には演奏者の楽譜をニコニコして持ってあげる人まで出てきました。
やがて演奏が終わると、機内は拍手と大歓声で包まれました。

飛行機が予定通りに出発していたなら、けっして聴くことはできなかった小さな演奏会。
飛行機の中でイライラする時間を至福の時間に変えてしまった幻のコンサートでした。

10/3「外国人が見た明治の日本」

『ジャングル・ブック』などで知られるイギリスのノーベル文学賞作家ラダヤード・キプリング。
もう1世紀以上前の人ですが、彼は当時のアメリカやアフリカ、インド、中国などを旅し、
明治22年の日本にも立ち寄っています。
その日本の印象のひとこまを、彼は手紙の中に記しています。

キプリングが京都・嵐山にピクニックにやってきたときのこと。
茶屋の一室を借りてのんびり憩っていたところ、
茶屋の女将から「ほかの客のために屏風で仕切って相部屋にしてほしい」と言われました。
相部屋という風習を経験したことのないキプリングは、不愉快な思いをしますが、
我慢して申し出を受け入れることにしました。

部屋に通されたのは、一家総出で行楽に来た人たち。
その家族が賑やかに笑い合いながら食事をする様子を眺めているうちに、キプリングは次第に目を奪われていくのでした。

食事を楽しみながら、お母さんがお祖母さんの世話をし、
一方、14歳と15歳くらいの二人の少女が8歳くらいの元気のいいおてんば娘の面倒を見ています。
さらに、その子は気が向くと、一人のむずがっている赤ん坊をあやしているのです。
そして、その赤ん坊は赤ん坊で、家族全体の面倒をみているつもり・・・・。

このようなユーモアを交えながら、キプリングは、一人一人がお互いを気遣い、
思いやる日本の家族の様子を記しています。
世界中を見聞したキプリングにとって、このような家族の姿は初めて目にするものでした。

近代化された西欧諸国に比べて先進国とはいえなかった明治22年の日本。
でも、一人の外国人作家の目から見ると、
日常の暮らしの中で慈愛に満ちあふれた気高い心をもつ日本人の豊かな心は、
他のどの国より優れた先進国だったのです。

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