「萩の花 をばな 葛花 なでしこの花 をみなえし また藤袴 朝顔の花」
日本人の心に秋の七草を根付かせた山上憶良の歌です。
憶良がこの歌を詠んだのは筑前守となって大宰府に赴任しているときですが、
実は憶良がそこにたどり着くまでには遠い道のりがありました。
憶良が第七次遣唐使の随行員に任じられたのは42歳のときといわれ、それまでは無位無官。
長く不遇の年月を重ねていたのです。
当時、唐の国に渡るということは命がけのことでしたが、無事帰国すれば世に出る大きな契機となります。
憶良はそのチャンスを見事につかみとったのです。
帰国後、憶良は聖武天皇の皇太子時代の侍講、
いわゆる教官を務めるなど出世し、ついに筑前守に任じられます。
そして大伴旅人などとともに、歌人として九州の筑紫の地に万葉の文化を大きく花開かせました。
ところが晩年、病に臥せた憶良が詠んだ辞世の句とされる歌があります。
「士やも 空しかるべき萬代に 語り継ぐべき 名はたてずして」
男子たるものが空しく一生を終えてよいものであろうか、後世に語り継ぐに
相応しい名声を残すことなく、と切々と詠う憶良。
しかし、万葉集の憶良の名歌の数々は日本人の心をとらえ、
千数百年の時を越えてその名を永く語り継ぎました。
この秋も、誰かがふと秋の七草を口ずさみ、憶良の嘆きを癒すのです。