2010年8月アーカイブ

8/29「赤とんぼの母」

どこからともなくあらわれて、夏の終わりを知らせるように飛び始める 赤とんぼ。
「夕焼 小焼の あかとんぼ」
子供の頃に歌った赤とんぼの歌が懐かしく思い出されます。
実はこの歌には、作詞した三木露風の母を思う心が秘められているといわれます。

6歳の頃に両親が離婚した露風。
幼稚園から帰ってみると、母親がいなくなっていたという、突然の辛い別れでした。
その後は祖父母に育てられ、早くも16歳のときに
三木露風のペンネームで詩歌集(しいかしゅう)を発表、東京に上京しています。
このとき露風は母に手紙を書いています。
母親の「かた」は離婚後、帝国大学に学び、明治時代に看護婦となって自立。
その後再婚して新たな家庭を築いていました。
息子への返信の手紙には「汝(なんじ)の頬(ほお)を当てよ。妾(わらわ)はここにキスをせり」と書かれていました。
くちづけをした便箋に頬を当てて欲しいと願う母。
露風はひと目も気にせず涙したといわれます。

その後、露風は童謡の作詞家として活躍。
かたは市川房江などとともに女性の参政権を求め、婦人解放運動家として活動し92歳で亡くなります。
つきっきりで看病し最期を看取った露風は、その夜、かたの家族に願い出て、母の亡骸に添い寝したといわれます。
かたの墓石には、露風の筆(ふで)で「赤とんぼの母 ここに眠る」と刻まれています。
それからわずか2年後、露風は75歳で亡くなるのです。
まるで、急いで母の後を追いかけたかのような最期でした。

8/22「ベルリンの空に上がった花火」

秋田県大仙市(だいせんし)で開かれる「大曲(おおまがり)の花火大会」は、
明治43年に始まり、戦争による中断や災害のために存続が危ぶまれたこともありましたが、
現在では全国の花火師が目標とする花火大会として名を馳せています。
その大曲で「花火の神様」と一目置かれていたのは、いまは亡き花火師の佐藤勲(さとういさお)さんです。

彼のモットーは、
「花火大会の目的は、花火を打ち上げることだけではない。
花火師同士の交流の中で、伝統や業界の昔話に耳を傾ける。
それが若い花火師の財産になる」というもの。
自ら大会の企画から警備の手配まで携わり、運営を陰から支える存在でもありました。

予算の調達で苦労していた昭和30年代には、花火師に支払う報酬が少なかったため、
佐藤さんはせめて精いっぱいの真心で応えたいと大曲駅に到着する花火師一人ひとりを出迎え、
「遠い中、ご苦労さまです」とねぎらいの言葉をかけたそうです。

昭和62年、ドイツがまだ東西に分かれていた頃のこと。
ベルリン市制750年祭典のフィナーレを大曲の花火が飾ることになり、
佐藤さんは記者会見で、
「ベルリンの地上には壁がありますが、ベルリンの空に壁はありません。
どうぞ、西のお方も東のお方も、楽しんでください」と語りました。
翌日、ドイツの新聞は「ベルリンの空に、壁はない」というタイトルが一面を飾り、
それから2年後、ベルリンの壁は取り払われ、空と同じように一つにつながりました。

今年100年目を迎える大曲の花火大会は、今週28日に大仙市の夜空を彩ります。

1900年代初め、シベリアは、ロシアからの独立を目指すポーランド人が、
反乱を起こした罪として送られる流刑地でした。

1918年、ポーランドは念願の独立を果たしたものの、翌年にはロシアとの戦争が始まり、
シベリアに残された人々は祖国に帰るルートを絶たれてしまいます。
せめて子どもたちだけでも救いたい、とポーランドは欧米諸国に援助を求めますが、
ことごとく拒否され、最後に救いを求めたのが日本でした。

日本政府から要請を受けた日本赤十字社は、孤児救済を異例の早さで決断。
2週間後には孤児56人が東京に到着し、その後も8回に分けて合わせて765人の孤児たちが日本に到着しました。
日本に着いた孤児たちには、まず衣服の熱湯消毒が行われました。
そのとき、衣服の代わりに支給された浴衣の袖には、飴やお菓子がたっぷりと詰められていたそうです。

このニュースは日本でも大きな関心を集め、歯の治療や散髪を無料で申し出る団体、
また慰問に訪れる合唱団などが後を絶ちませんでした。

孤児たちはみるみる元気を取り戻し、やがて祖国に帰る日がやってきました。
横浜港で孤児たちは「アリガトウ」を何度も繰り返し、看護師たちと離れるのを泣いて嫌がりました。

それから70年余り。
日本が阪神大震災に見舞われたとき、ポーランドは真っ先に、
震災で両親を亡くした子どもたちの援助を申し出ました。
ポーランドでは、「いかなるときも日本の恩を忘れない」と、いまなお若い世代にその精神を受け継いでいるのです。

8/8「トキの田んぼ」

かつては、日本の里山の空を当たり前のように舞っていたトキ。
でも、ピンク色がかった美しい羽と、のんびりした性格が災いし、
乱獲と環境悪化によって日本の空から消えてしまいました。

絶滅が心配されるトキですが、中国の陝西省(せんせいしょう)洋県(ようけん)には、
今なお多くの野生のトキが生息しています。
その地とほぼ同じ緯度にあるのが、九州・大分県の九重(ここのえ)町。
米と椎茸の産地で、美しい山々に囲まれ、豊かな田園風景が広がっていることでも共通しています。
それならば、この町はトキが生息するのにぴったりの場所なのではないか
??そこで九重町では、50年後あるいは100年後にトキが舞う日を夢見て、その環境づくりに取り組んでいます。

トキは、雑木林をねぐらにし、田んぼのドジョウやカエル、昆虫を餌にする鳥です。
生き物がたくさんいる健康な田んぼ。
それは農薬も機械も使わない、昔の田んぼがトキの生活の場です。
地元の大人たちや子どもたちが参加して、「トキのすめる田んぼづくり」がスタートしました。

指導するのは、昔ながらの米づくりを知る地元のお年寄り。
先生として迎えられたお年寄りは、時代遅れだと思っていた自分の知恵と技が
若い人たちの役に立っている、という喜びで、いきいきと輝いています。
また、子どもたちもそんなお年寄りを尊敬の眼差しでみつめ、
熱心に指導を受けながら、泥まみれになって田植えに取り組んだのです。

50年後、100年後にトキが棲める町をめざして、
お年寄りと子どもたちが一緒になって取り組んでいる田んぼづくり。
その夢は、きっと今の子どもたちから、また次の世代へと受け継がれていくことでしょう。

8/1「星野村の火」

昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が落とされました。
その残り火が、福岡県八女市星野村で今も燃え続けています。

星野村に生まれた山本達雄(やまもとたつお)さんは、8月6日の朝、召集命令を受けて広島に向かっていました。
午前8時15分、原爆は一瞬で広島の町を焼き尽くします。
廃墟の町に入った山本さんは、広島市内で書店を営む叔父さんの安否を心配しました。
この叔父さんはかつて、幼くして父親を亡くした山本さんを我が子同様に育ててくれた人だったのです。

山本さんは、来る日も来る日も叔父さんを捜します。
焼けただれた遺体が山のように積んである場所にも足を向けましたが、ついに叔父さんをみつけることはできませんでした。

山本さんは、叔父さんの書店に立ちすくみ、灰の中でまだくすぶり続ける火を見つめながら、
「せめてこの残り火を、伯父さんの遺骨代わりに持って帰ろう」と決心。
お守り代わりに持ち歩いていたカイロにその火を移し、星野村まで大切に持ち帰りました。
その火は仏壇や火鉢に移され、20年以上もの間、山本家でひっそりと守られていました。

そして昭和41年、たまたまお茶の取材で星野村を訪れた新聞記者がその火のことを記事にし、
それがきっかけとなって星野村に平和の塔が建設され、原爆の残り火が移されました。

平成16年、山本さんは88歳の長寿を全うしてこの世を去りました。
星野村に残された平和の塔でいまも燃え続ける原爆の残り火は、
山本さんの遺志を継いで、戦争を知らない子どもたちに平和の尊さを訴えています。

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