2010年7月アーカイブ

7/25「小泉八雲と妻、セツ」

日本人より日本を深く愛した小泉八雲(こいずみ・やくも)こと、ラフカディオ・ハーン。
その代表作「怪談」は、妻のセツと二人三脚で書き上げられたことで知られています。

セツは日本の文字が読めない夫のために、各地に伝わる幽霊話や伝説を調べますが、
八雲は、本に書かれていることをそのまま読み聞かせてもらうのではなく、
セツが自分なりに読んで解釈したものを八雲に語り聞かせるよう望みました。
そのため、セツは夫が仕事で不在の昼間、懸命に読書をしては、
自分の感性を通して様々な話を語り聞かせたといわれます。
そんなセツを八雲は心から愛し、4人の子供にも恵まれました。
八雲は亡くなる前の数年間、夏休みは静岡県焼津(やいづ)の海辺に家を借りて
一家で過ごしましたが、ある年、東京に残った妻にあてた手紙が残されています。

「小サイ可愛イママサマ 
ヨク来タト申シタイ アナタノ可愛イ手紙 今朝参リマシタ 
口(くち)デ言エナイホド喜ビマシタ。
私少シ淋シイ 今アナタノ顔ミナイノハ。
マダデスカ。見タイモノデス。」

簡単な漢字とカタカナで書かれた片言の手紙。
そこには妻への想いがあふれています。
セツもまた日本女性の美徳である礼節を重んじながら夫に仕え、愛のある温かく和やかな家庭を築きました。

八雲が愛した日本、それは「セツのいる日本」だったのではないでしょうか。

7/18「ドイツに眠る日本人医師」

第二次世界大戦中、ドイツで伝染病の患者を救った日本人の医師がいます。
彼の名は、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)。

1945年、ドイツのベルリンに留学していた肥沼は、戦火から逃れるため、リーツェンという小さな町に避難します。
ところが、この町では発疹チフスが大流行。
町の医師たちは皆戦争に駆り出されていたため、肥沼はこの町のただ一人の医師として、懸命な治療にあたります。

衰弱して病院まで来ることができない患者がいると聞くと、
7キロも離れた町まで薬を届けることもあり、大勢の患者が命を救われました。
しかし翌年、チフスは肥沼の身体にも襲いかかります。
心配する看護師に、彼は最期まで「貴重な薬は患者たちに使いなさい」と言い、静かに息を引き取りました。

ドイツはその後、東西に分かれ、東ドイツの管轄になったリーツェンで、
肥沼は人々の記憶からも消え去っていくかに思われました。
しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊。
43年ぶりにリーツェンの町の人々が自由を手に入れたときに取った行動は、肥沼の日本の家族を探すことでした。

新聞の尋ね人に何度も掲載し、ようやく肥沼の弟と連絡を取ることができたリーツェンの市長は、
1994年、弟夫妻を招待して、長年の感謝の気持ちを伝えました。

いま、リーツェンには「肥沼通り」という名前のストリートがあり、肥沼が好きだった桜の木が植えられています。
人々は、そのストリートを通るたび、勇気ある日本の医師をいまも讃えているそうです。

7/11「帝王のやさしさ」

オーケストラの指揮者は、手にした小さな指揮棒を動かすだけで演奏者全員を完全に支配し、
オーケストラの演奏を自在に操ります。
20世紀に活躍した指揮者の中で、クラシック音楽に親しみのない人でもその名前を知っているのが、
ヘルベルト・フォン・カラヤンでしょう。
優れた指揮者はよく巨匠と呼ばれますが、カラヤンの場合は帝王と称されるほど、
近寄りがたい畏敬の念をもたれていました。

デビューは1929年。
1989年に亡くなるまで、ベルリン・フィルを中心に、世界の主要歌劇場とオーケストラに君臨したカラヤンは、
音楽に対して独特の美学をもち、オーケストラの楽団員には、ゆるぎない正確さと完璧さを要求しました。
そのうえで、重厚で緻密なアンサンブルを追求していきました。
ところが、そんなカラヤンも、思いがけない面をみせることがありました。

ある日、ウィーンの国立歌劇場でモーツァルトの『レクイエム』を指揮していたときのこと。
管楽器奏者の一人がリズムを乱してしまったのです。
ごくごく小さな乱れではありましたが、それがだんだん皆の演奏とずれていきます。
カラヤンはなんとかそのズレを戻そうと試みましたが、修復できません。
そのうち、演奏を聴いている聴衆たちにも気づかれそうになりました。
その瞬間、カラヤンは演奏を中断。そして振り返って聴衆のほうを睨みました。
つまり、演奏を中断したのは、演奏者のほうではなく、
聴いている聴衆のほうに何か問題があるかのように振る舞ったのです。
その後、気を取り直したかのように、カラヤンはまた最初から『レクイエム』の指揮を始めました。

トラブルが起きた際の素早い判断と対処。
そこには聴衆の面前で演奏者に恥をかかせない、そんなやさしさが込められていたのです。
ちなみに、2回目の演奏は完璧。
聴衆たちもまた、名演奏を満喫することができました。

7/4「嘉南平原の父」

中国には昔から、「水を飲むたびに、井戸を掘った人に感謝しなさい」という教えがあります。
明治28年、日本の台湾統治が始まりますが、
その時代に世界にも例を見ない大規模なダムを台湾に建設した日本人がいます。

彼の名は、八田與一(はったよいち)。
台湾で一番広い嘉南(かなん)平原は、洪水や干ばつが度々おこり、だれも手がつけられずにいましたが、
八田は10年の歳月を費やして当時アジア一(いち)と呼ばれたダムを建設。
いまも60万人の農民から「嘉南の父」と呼ばれています。

彼が台湾で行った事業はダム建設だけではありません。
学校や病院を建てたり、映画鑑賞会を開いたりと、何よりも働く人々の環境を整えることに力を尽くしました。

八田與一が台湾の人々に愛されていることを物語るエピソードがあります。
太平洋戦争の終盤、武器を作るために台湾中の金属が次々と回収される中、
住民たちは真っ先に八田の銅像を隠したのです。
戦後になっても、反日感情を考慮して銅像は隠されたままでしたが、
昭和56年、住民たちのたっての希望で、銅像は37年ぶりに再び元の位置に戻されました。
台湾では教科書にも彼のことが掲載され、ある女子高生は「祖父の時代にダムを造った日本人を尊敬します。
技術は国境を越えるのですね」と語りました。
一方、八田の功績を新聞で知った日本の男子中学生は、
「これからは僕らが日本と台湾のかけ橋になることで、新しい未来の絆を深めていきたい」と語っています。

サトウキビも育たなかった荒れ地をダムによって台湾最大の穀倉地帯に変えた八田與一。
脈々と流れる水は、田畑だけでなく、未来を担う子どもたちの心も潤しています。

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