2010年6月アーカイブ

6/28「もうひとりの宮沢」

「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」などの作品で知られる宮沢賢治。
しかし生前は、作家としてはほとんど無名の存在でした。
そんな彼を、童話作家として詩人として日本を代表する存在にしたのは、
もうひとりの宮沢、健治の八歳年下の弟、清六(せいろく)でした。

岩手県花巻の裕福な資産家の長男にうまれた健治は、
教師や農業指導のかたわら童話などの執筆に取り組みました。
父親との折り合いも悪かった兄に代わって家を継いだのが清六で、病弱な兄を経済的にも支えました。

昭和8年9月、病気が悪化して健治に死が迫ったとき、兄の容態を心配した清六は、そばに寝て一夜を明かします。
このとき健治は「俺の原稿はみんなお前にやるから、もしどこかの本屋で出したいと言ってきたら、
どんなに小さな本屋でもいいから出版させてくれ」と言い残すのです。
健治が亡くなったのは、その翌日。
37歳の若さでした。

清六は、健治と交流のあった作家の草野心平や高村光太郎の協力を得ながら、翌年には「宮沢賢治全集」を出版。
また、兄の遺品の手帳に、人知れずメモのように書かれていた「雨ニモマケズ」を世に送り出し、
戦時中に空襲で自宅が焼失した際にも、健治の原稿を守り抜きました。

兄の最後の願いを、生涯をかけて叶えたもう一人の宮沢は、
平成13年6月97歳で兄のもとへ旅立っています。

6/20「五輪無冠のトビウオ」

1948年、敗戦後の日本に大きな勇気を与えてくれた水泳選手がいました。

彼の名は、古橋広之進(ふるはしひろのしん)。
この年、ロンドンでオリンピックが開催されますが、敗戦国である日本は参加が認められませんでした。
日本水泳連盟は、敗戦で打ちひしがれる日本人に、なんとか祖国再建のきっかけを与えたいと、
あえてオリンピックが開催される同じ日に「日本選手権大会」を開催しました。

このとき、オリンピックで優勝した水泳選手より、8秒近くも上回る世界記録を出したのが古橋です。
この快挙は日本中を沸かせますが、古橋の記録は海外からはまったく相手にされず、
「日本のプールは短い」とまで言われる始末でした。

この悔しさを胸に、古橋が世界の舞台でその実力を発揮できたのは、翌年のロサンゼルス全米選手権でした。
国民の期待を背負った古橋は、1500m、400m、800mリレーと次々に他者を圧倒して優勝。
アメリカ中に旋風を巻き起こし、このときに付いたニックネームが「フジヤマのトビウオ」です。
号外は、いくら刷っても飛ぶように売れたといわれています。

しかし古橋はオリンピックとは縁がなく、日本の参加が再び認められたヘルシンキ大会では体力がついていかず、結果は第8位。
そのとき、実況中継を担当したアナウンサーは涙ながらに叫びました。

「古橋は、戦後の明るい光でした。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展はあり得なかったのです。どうか古橋を責めないでください。」
結果よりも、感謝の気持ちを??
日本中がアナウンサーと同じ気持ちになって、古橋にいつまでも惜しみない拍手を送りました。

6/13「愛の理髪師」

1950年に起こった朝鮮戦争。
この時代の韓国で合わせて133人の戦災孤児を守り育てた日本人女性がいます。
永松カズさん。
彼女自身も幼くして中国大陸で、いわゆる「残留孤児」として苦労をしながら生き抜いてきました。

日本の敗戦でようやく引揚者として祖国・日本に帰ることができたカズさん。
しかし、日本に身寄りがなく、母が眠る大陸に思いを募らせた彼女は、
3年後に再び日本から韓国に渡り、ソウルで暮らします。
そこで勃発した朝鮮戦争。
戦火の中を逃げ惑っているとき、目の前で、胸を撃たれた一人の女性が倒れました。
その腕には、泣き叫ぶ血まみれの赤子。
カズさんは見捨てることができず、思わず男児を抱きしめました。
このことが、親のない孤児たちの母として生きてゆくきっかけとなったのです。

孤児たちを引き連れて路上で寝起きする避難生活。
戦争が終わると、ソウルの街にバラック小屋で理髪店を営みながら、孤児たちの世話をしていきます。
裕福な人が行う慈善事業ではありません。
子どものころから天涯孤独で流浪の人生を歩んできたカズさんは、
学校というものに通ったことがなく、財産もありません。
理髪店の収入だけでは、とうてい子どもたちを養うことはできず、
同時にさまざまな肉体労働をして生計を立て、ときには自らの血を売ってまでお金を稼ぎ、
子どもたちに食べさせ、育てていったのです。
やがてカズさんはソウルの人々の間で「愛の理髪師」と呼ばれるようになり、
韓国内にも日本にも支援者が増えていきました。

1983年に波乱の生涯を閉じた永松カズさん。
彼女自身の口癖で、133人の戦災孤児に語り続けたのは、
「転んでも転んでもダルマの如く立ち上がれ」という言葉です。

6/6「スタープレイヤーと子どもたち」

戦後のプロ野球界に彗星のように現れ、「青空高く舞い上がるホームラン」で活躍した大下弘(おおしたひろし)。
オールドファンならご存知でしょう。

昭和30年代、福岡の西鉄ライオンズは日本最強のチームだとうたわれましたが、その牽引役となったのが、大下選手。
当時のスタープレイヤーの一人です。
そんな彼の心休まるひとときは、子どもたちとのふれあいでした。

近所で見知らぬ少年たちがキャッチボールをして遊んでいると、彼は気軽に声をかけます。
「キミたち、野球が好きか」
そして、そのまま、彼はごく自然にキャッチボールの相手を務めるのです。
こうやって仲良くなった大勢の子どもたちのために、彼は自宅を開放し、
宿題を終えた子どもたちに野球を教えたり、またキャンプに連れていったり、クリスマス会を催したりしました。

また、地元・福岡で試合がある日は、まず近所の子どもたちが大下家に集合。
大下選手のスパイクやグローブなど野球道具を奪い合うように分担して手に持ち、
大下選手を先頭に、当時のホームグラウンド・平和台球場まで皆で歩いて通っていたのです。
その姿を見た人の話によると、子どもたちは皆誇らしげに、大はしゃぎしながら大下選手の後をついていき、
その大下選手自身は大人ではなく、まるで子分どもを引き連れたガキ大将のようだったそうです。

その後、現役引退した大下選手は、やがてプロ野球界も去り、昭和54年に亡くなりますが、
それまでずっと少年野球チームの指導に取り組んでいました。

彼は、いつも子どもたちとふれあって童心に返ることで、
野球という少年時代からの夢を、そのまま生涯見続けたのかもしれません。

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