関門海峡に浮かぶ巌流島は、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘がおこなわれたことで知られています。
その地を見下ろすように、北九州市小倉北区の手向山(たむけやま)の山頂に武蔵の業績を称える石碑が建てられています。
通称、「小倉碑文(こくらひぶん)」と呼ばれるこの石碑を建てたのは、武蔵の息子、宮本伊織(みやもと・いおり)です。
幼い頃に武蔵の養子となった伊織は、15歳のときに武蔵の推挙で播州明石藩主:小笠原家に仕え、弱冠二十歳で家老に抜擢されます。
その後、小笠原家が小倉に移ると、ついに筆頭家老(ひっとうがろう)にまで
上り詰め、「小倉藩に宮本伊織あり」と、その名は、将軍徳川家にまで聞こえるほどであったといわれます。
父親の武蔵から与えられた人生のチャンスを生かし、大きく羽ばたいた伊織。
大名家に仕えることなく、剣の道に生きた武蔵とは、正反対の人生でした。
しかしそれは、剣豪であったがゆえに叶わなかった武蔵の、もうひとつの夢を実現した人生だったのではないでしょうか。
武蔵が亡くなってから9年後、伊織が建てた石碑には、武蔵の足跡が刻まれました。
巌流島の決闘も、ここに綴られたことで史実とされ、武蔵を知る貴重な資料となっています。
とかく伝説の多い剣豪:武蔵の名を、後の時代に確かに伝えようとした伊織。
手向山の小倉碑文には、武士としてそれぞれの道を歩んだ父と息子の、心の絆が刻まれているのです。