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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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5/2「熊さんとノイホイくん」

明治34年、日本初の製鐵所として、北九州市に八幡製鐵所が誕生しました。

ドイツ製の溶鉱炉を使いこなすには、ドイツ人の技術者を招き入れ、彼らの指導を仰がなければなりません。
その指導は辛く、毎日ドイツ語で怒鳴られ、作業員が次々と辞めていく有り様でした。
それでも一人、黙々と厳しい指導に従って作業を続けていたのが田中熊吉(たなかくまきち)です。

「日本には鉄が必要だ。たった一人になっても、俺が鉄づくりを学ぶ」
やがて熊吉は、ドイツ人の職工長ノイホイザーに認められ、
お互いに「熊さん」「ノイホイくん」と呼び合うほどの仲になりました。

ところが、鉄の製造量が思うように伸びないという理由から、溶鉱炉の使用は突然中止。
ノイホイザーもドイツへの帰国が命じられます。
ノイホイザーは、「溶鉱炉の仕事は必ず再開する。熊さん、あんただけが頼りだ」と言い残し、
熊吉はこの言葉を深く胸に刻みました。

熊吉は、溶鉱炉の構造や原料の見直しなどを徹底的に行い、
2年後の再開のときは先頭に立って指揮を執りました。
そして47歳のとき、八幡製鐵所で第1号の「宿老(しゅくろう)」に選ばれました。
これは、定年がなく一生働くことができる八幡製鐵所の最高に名誉ある地位です。
また熊吉は、日本の各地で溶鉱炉に火入れを行う際には必ず呼ばれ、
日本でも指折りの溶鉱炉の神様と言われるようになりました。

98歳で亡くなるまで現場で指導をした熊吉は、
「彼のおかげで、いまの日本がある」と胸ポケットにいつも、
くしゃくしゃになった「ノイホイくん」の写真を偲ばせていたそうです。