2010年4月アーカイブ

4/25「兄と弟の思い出「背くらべ」」

新緑の5月が近づいてきました。
この季節、風にたなびく鯉のぼりとともに多くの人に親しまれている歌があります。
「柱のきずは おととしの」で始まる「背くらべ」です。
しかし、この歌を作詞した海野厚(うんの・あつし)の名を知る人は、決して多くはありません。

早稲田大学在学中に児童雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に称賛されるなどして、
童謡の世界に足を踏み入れた海野は、その後仲間とともに童謡楽譜集「子供達の歌」を発刊します。
その第三集「背くらべ」が出版されたのが大正12年5月でした。

海野は静岡の出身、7人兄弟の長男で、末っ子の弟とは17歳も離れていました。
「背くらべ」は、2年ほど会っていないふるさとの幼い弟に思いを馳せて、
兄弟で背くらべをした懐かしい風景を、弟の視点から描いたものでした。

それから2年後の5月、肺結核を患っていた海野は、28歳の若さで惜しくも亡くなります。
これからというときでした。

しかし、歌のモデルとなった弟の春樹(はるき)氏は、その後NHKのアナウンサーとなって活躍。
さらに大学教授となって人材の育成に力を注ぎ、83歳の天寿を全うしています。

弟の活躍を兄は喜んだに違いありません。
そして、海野の名は知らずとも、今年も多くの人々が「背くらべ」を懐かしく口ずさむことでしょう。

4/18「進化するリヤカー」

きょう、4月18日は発明の日です。
大きな荷台に車輪をつけて重たい荷物を運ぶリヤカーは、大正時代に日本で発明されたものですが、
このリヤカーを現在も作り続けているのが、東京にある「ムラマツ車輌」です。

リヤカーは昭和初期から物流を支える柱として活躍していきました。
しかし、やがて自動車が普及していくと、その需要は減っていき、多くのメーカーが撤退していきました。
それでも「ムラマツ車輛」の村松社長はわずかな需要に応えるためにリヤカーを作り続け、
また、パイプの溶接技術を向上させて、ボルトを一本も使わない頑丈なリヤカーをつくることに成功しました。

その強度を証明したのは、ゴルフバッグを運ぶカートです。
あるゴルフ場ではあまりの丈夫さに驚き、すべてのカートをムラマツ車輌の製品に取り替えることにしました。
ムラマツ車輌の工場はいつもオープンになっています。
ある時は、誰かがふと立ち寄って「こんなカート、作れないかなあ」と相談したのをきっかけに、社長が改良を加えました。
そうしたやり取りの中で新製品が開発されることもあります。

ひと回り小さなリヤカーを自転車で引っ張るアイデアも、
宅配業者の社員が相談に訪れたことから始まり、いまでは全国の支店から注文が殺到しています。
また、依頼者の願いを叶えたい一心で、
年老いて歩けなくなった犬を乗せて散歩に連れていけるカートを作ったこともあります。

村松社長は「職人の腕は年を追うごとに熟練していくから」という理由で定年制度を廃止し、
次の世代に技術を伝えることにも力を入れています。
ムラマツ車輌のリヤカーとカートは、荷物だけでなく、みんなの希望や産業の未来も運んでいるのです。

4/11「夜空の暴走族」

星空??天文学の分野で注目を集めているアマチュア天文家がいます。
福岡県久留米市の西山浩一(にしやまこういち)さんと、佐賀県みやき町の椛島冨士夫(かばしまふじお)さんです。

二人は30年来の友人で、ともに70歳を超えるシルバー世代です。
天文学という共通の趣味を持ち、これまで暗すぎて見えなかった新しい星:新星を二人で次々と見つけ出し、いまではその数42。
そのペースがあまりにも速いので、天文仲間からは「夜空の暴走族」と呼ばれています。

新星を発見するのは、とても地道な作業です。
肉眼の100万倍の能力を持つ望遠鏡で西山さんが撮影を担当し、
天文学に詳しい椛島さんがパソコンに取り込んだ画像と古い画像を食い入るように見比べて、
ほんの小さな変化から新星を見つけ出します。
なかでも去年11月に見つけた「超新星」は、新星のおよそ1万倍の明るさがあり、
九州で見つかったのは初めてという快挙を成し遂げました。

普通は、発見者としての名誉を独り占めしたいとの思いから、
共同で観測するアマチュアは少ないのですが、西山さんは自前の天文台を建てる際、
迷わず椛島さんに声を掛けました。
二人が発見した超新星がパリの国際天文学連合に認定されたとき、西山さんは、
「二人三脚だからこそ、お互いに助け合うことも、客観的な視点で見ることもできる。それが結果に結びついて本当にうれしい」と語りました。

シルバー世代に夢と希望を与えてくれる、西山さんと椛島さん。
これからの目標は「年齢を超える数まで、新星を発見すること」です。
二人は今夜も、天文台で銀河のロマンを追いかけていることでしょう。

4/4「スポーツ交流ことはじめ」

明治38年のきょう??4月4日、日本の大学野球部が、アメリカ遠征に向けて横浜港から船で出航しました。
これは、日本スポーツ史上初の海外遠征です。

当時の日本の野球界といえば、後の東京大学となる一高、学習院、慶応の3大学だけに野球部がありました。
これに遅れて参入したのが、早稲田大学。
その野球部長は、スポーツによる国際交流が世界平和への道と考え、
「3大学を破ったら、野球の本場アメリカへ連れていく」と部員たちに約束し、激励しました。
その言葉を胸に早大野球部は、創設3年目にして3校に全勝したのです。

アメリカ行きを喜ぶ野球部員たち。ところが、大学当局がそれを許可しなかったのです。
その理由は、遠征先が外国であったこと。
明治時代、アメリカといえばおとぎ話の中に出てくるような遠い国であり、
学生が野球のために太平洋を渡るなどあまりにも現実離れした企てだとされたのです。
さらには、当時の日本はロシアと戦争状態。
国家の非常時に学生が野球にうつつをぬかして海外に行くなど許されない、というのです。

泣く泣く夢を諦める野球部員たち。しかし、この話を耳にした一人の老人が立ち上がりました。
「戦争はその係りである軍人がやっている。学生には学生の成すべき道がある。
大いに見聞を広めてくるべき。もし、政府から何か言ってくれば、我輩がかけ合おう」
こう主張したのは、後に早稲田大学の総長となる大隈重信だったのです。

夢は実現し、野球部員たちは、アメリカ各地で日本人として初のスポーツ交流を行い、
また、その後の日本の野球の発展に大いなる貢献を果たしました。

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