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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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4/4「スポーツ交流ことはじめ」

明治38年のきょう??4月4日、日本の大学野球部が、アメリカ遠征に向けて横浜港から船で出航しました。
これは、日本スポーツ史上初の海外遠征です。

当時の日本の野球界といえば、後の東京大学となる一高、学習院、慶応の3大学だけに野球部がありました。
これに遅れて参入したのが、早稲田大学。
その野球部長は、スポーツによる国際交流が世界平和への道と考え、
「3大学を破ったら、野球の本場アメリカへ連れていく」と部員たちに約束し、激励しました。
その言葉を胸に早大野球部は、創設3年目にして3校に全勝したのです。

アメリカ行きを喜ぶ野球部員たち。ところが、大学当局がそれを許可しなかったのです。
その理由は、遠征先が外国であったこと。
明治時代、アメリカといえばおとぎ話の中に出てくるような遠い国であり、
学生が野球のために太平洋を渡るなどあまりにも現実離れした企てだとされたのです。
さらには、当時の日本はロシアと戦争状態。
国家の非常時に学生が野球にうつつをぬかして海外に行くなど許されない、というのです。

泣く泣く夢を諦める野球部員たち。しかし、この話を耳にした一人の老人が立ち上がりました。
「戦争はその係りである軍人がやっている。学生には学生の成すべき道がある。
大いに見聞を広めてくるべき。もし、政府から何か言ってくれば、我輩がかけ合おう」
こう主張したのは、後に早稲田大学の総長となる大隈重信だったのです。

夢は実現し、野球部員たちは、アメリカ各地で日本人として初のスポーツ交流を行い、
また、その後の日本の野球の発展に大いなる貢献を果たしました。