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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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9/19「ふるさとの石」

幕末の日本。
日米修好通商条約の批准書交換のため、
幕府の蒸気船「咸臨丸」(かんりんまる)が初めて日本の船として太平洋横断に成功しました。

勝海舟やジョン万次郎、福沢諭吉などを乗せた咸臨丸が浦賀を出港したのは、1860年2月。
およそ1ヶ月の航海を経てサンフランシスコ湾に到着し、熱烈な歓迎を受けました。

この偉業を陰で支えたのは、咸臨丸の帆の上げ下ろしや蒸気機関の石炭くべなど
重労働に従事した67人の乗組員です。

その乗組員のひとりが、長崎出身の峯吉(みねきち)。
彼は長い航海のほとんどを、狭くて熱い船底でボイラーに石炭をくべる役目を担いましたが、
その苛酷な仕事が祟ったのか、サンフランシスコに上陸して間もなく熱病にかかり、
看護の甲斐なく亡くなってしまいました。
峯吉のほかにも、2人の乗組員が同じように病死。
彼らは日本に帰る咸臨丸に再び乗り組むことなく、異郷の地に手厚く葬られました。

峯吉ら3人の墓は現在、サンフランシスコ郊外の日系人共同墓地にあり、
現地の日系人団体の人たちが命日などに花を供えたり、掃除をしたりして守り続けています。
命がけで太平洋の荒波を渡った3人の乗組員の勇気と精神は、
現在のアメリカに暮らす日本人の心にも深く刻まれているのです。

咸臨丸の太平洋横断から150年目に当たる今年、日系人団体の手によって3人の墓のそばに顕彰碑が建てられました。

そして、咸臨丸の栄光を陰で支えながら二度と日本に帰ることができず、
今なお、子孫が分からない峯吉のために、
彼が生まれた長崎の町に転がっていた拳ほどの大きさの石が選ばれ、「ふるさとの石」として墓前に供えられました。