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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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9/12「ユタ州の日本語新聞」

いまからおよそ100年前、アメリカ合衆国のユタ州で、日本語の新聞が配られていました。
それは、長野県出身の日本人・寺澤畝夫(てらさわうねお)さんが、
当時ユタ州に住む日本人およそ2,500人のために発行した「ユタ日報」という新聞です。

この新聞は、週に1度、日本のニュースを届ける重要な情報源でした。
寺澤さんはやがて、同じ長野県出身の国子(くにこ)さんと結婚し、二人の娘に恵まれます。
ところが寺澤さんは突然、急性肺炎にかかって、亡くなります。
妻の国子さんは生きる気力を失くし、13歳と7歳の娘を連れて日本へ帰る準備を始めました。

その時です。
ユタ日報の読者である日本人たちが次々と訪れ、
「どんな協力も惜しまないから、新聞を続けてください。ユタ日報がなくなれば、
せっかく異国に根を下ろした我々の心の拠り所がなくなってしまいます」と国子さんに訴えました。
国子さんはそれまで専業主婦だったにも関わらず、
「皆さんのお力になれるのなら」と社長になる決心をします。

それから2年後、日米間で第二次世界大戦が始まり、
日本語新聞の発行禁止命令が出されましたが、
ユタ日報だけは開戦から2ヵ月後に再発行が認められたため、
祖国を憂う全米の日本人が購読し、最盛期の発行部数は1万部を超えていました。

ユタ日報の年間購読料は、当時わずか6ドル。
その後、読者の数が減少しても1ドルしか値上げをしなかったのは、
戦時中の利益をみなさんに還元したいという国子さんの強い意思からでした。
ユタ日報は、国子さんが95歳でこの世を去る1995年まで、異国で暮らす日本人たちを支え続けました。