2019年6月アーカイブ

2019年6月29日「89通のラブレター」

北海道に広がるジャガイモ畑は、これから花の季節を迎えますが、薄紫の花を咲かせるのが、明治時代に川田龍吉によってもたらされた男爵いもです。

龍吉は日本銀行総裁、川田小一郎の長男で、文明開化の熱気の中でイギリスに留学して大学に学び、帰国後は実業界で活躍。
父親から男爵の爵位を継承しています。

その後、函館の会社の取締役となった龍吉は、凶作と不況に苦しむ北海道に、かつてイギリスで食べたジャガイモの導入を思い立ち、様々な品種の中から北海道に一番適したものを見出します。
それが後に男爵いもと呼ばれ、広く栽培されるようになったのでした。

龍吉は55歳の若さで取締役を退くと北海道に留まり、その後の人生を農業近代化に捧げ95歳で亡くなりました。

その死後のことです。
金庫の中から大切に保管されていたひと束の金髪と89通もの英文のラブレターが発見されたのです。
それはイギリス留学時代に結婚まで約束した最愛の女性、ジェニーからのものでした。
龍吉は帰国後、結婚を願い出ますが、父親の断固たる反対でついに叶わなかったのです。

ジャガイモはジェニーと語り合いながら食べた思い出の味であったと言われます。結ばれなかった愛は、龍吉の人生を輝かせる大きな力になっていたのでした。

2019年6月22日「タイプライターを奏でる」

昔のアメリカ映画などを観ると、オフィスの風景で必ず登場するのがタイプライターです。
ここ数十年で文書の作成はパソコンが担うようになり、タイプライターは姿を消していきましたが、事務用品とは別の分野でいまも活躍しています。
それは音楽。

アメリカの作曲家ルロイ・アンダーソンが1950年に発表した管弦楽曲のタイトルは『タイプライター』。
仕事に追われる忙しいオフィスの情景を描いた作品で、演奏にはタイプライターを楽器として使います。
「パチパチパチ」というリズミカルなタイプ音や、行末に鳴る「チン」というベルの音、改行するときにレバーを押す「シュッ」という音が曲の随所に組み込まれているのです。

担当するのは打楽器奏者。
ただ正確に音を出せばいいというわけではありません。
いかにも会社の事務職風の服装でタイプライターを置いた机の前に着席して演奏が始まります。
さらに演奏パート以外では手をぶらぶらと振って疲れを取るしぐさをし、演奏が終わったら、タイプされた紙を取り出して指揮者に渡してステージから退場、というのがこの曲の演奏の取り決めになっているとか。

この曲はいまでも人気があり演奏する機会が多いので、オーケストラの打楽器奏者は日々、タイピストとしての腕を磨いているそうです。

2019年6月15日「こちらはカモメ号」

「私はカモメ! 私はカモメ!」
1963年6月16日、地球を回る旧ソ連の宇宙船ボストーク6号から世界に向けて「私はカモメ」という言葉が発信されました。
声の主はワレンチナ・テレシコワ。当時26歳だった、世界初の女性宇宙飛行士です。

東西冷戦の時代、ソ連は西側に宇宙開発の情報が漏れるのを避けるため、宇宙船のコールサインを動物や植物から名付けることになっていました。
テレシコワさんが乗り込んだボストーク6号のコールサインは「カモメ」。
だから彼女が発信した言葉のニュアンスとしては「私はカモメ」ではなく、「こちらはカモメ号」という地上基地への単なる呼びかけでした。

ところが、その言葉をキャッチした西側の国が、ロシアの文豪チェーホフの有名な戯曲『かもめ』を想像しました。
この中で、愛を失い人生にも苦悩を重ねる主人公が、望みを捨てず、いつか飛び立つことを夢見て「私はカモメ」と何度もくちずさむ場面があります。
テレシコワさんが、この戯曲に合わせて想いを伝えたのだろうと、全世界が、勘違いしてしまったのでした。

その一方であまり知られてはいませんが、宇宙から地球を眺めたテレシコワさんはふるさとの母親を思い、地上基地にこのような言葉も発信しています。
「わが母と、世界のすべての母親が幸せでありますように。」

2019年6月8日「吉岡隆徳の夢」

いかに速く走るかを競い合う競技:100m競走。
陸上競技の華でもあるこの種目で日本人が初めて世界レベルに追いついたのは、1932年のロサンゼルスオリンピック。
吉岡隆徳さんが決勝に進出し6位入賞を果たしたのです。

彼の武器は世界最速を誇ったスタートダッシュ。
極端な前傾姿勢をとり、体が倒れる直前に足を出して推進力に変えるフォームを編み出したのです。
このスタートダッシュに磨きをかけた吉岡さんは、3年後に日本国内の競技大会で、当時の世界記録10秒3を3度マークしています。

吉岡さんの登場によって世界に肩を並べた日本の100m競走。
しかし今なお、日本人の世界記録保持者はもちろん、オリンピック決勝進出の選手は現れていません。
そのことを一番悔やんだのは吉岡さん自身でした。

彼は引退後に後進の指導に熱を入れますが、最晩年になって
「いったいワシは何だったのか。自分の教え子が自分を飛び越えてくれるから指導者をやった意味がある。
でも何十年かけてもまだ自分の記録が破られない」とため息をついています。

1984年に吉岡さんが亡くなってから35年の時を経た今、10秒の壁を破る9秒台スプリンターが二人も登場した日本。
2020年東京オリンピック100m決勝のスタートラインに、再び日本人が立つことに期待がかかります。

2019年6月1日「学天則」

いまや人間と見分けがつかないものもあるほど精巧に作られているロボット。
リアリティを求めた人型ロボットのルーツは90年前に遡ります。
昭和3年に京都の展覧会に出展された東洋初のロボット「学天則」です。

身長は3.5m。全身が金色で、男とも女ともいえない不思議な顔立ち。
目を閉じて瞑想し、やがて考えがひらめくと目を見開き、にっこりと微笑むと手にしたペンでその考えを書きとめるという一連の動きをします。
観客たちが驚いたのは、人間そのままのしなやかな動き。

このロボットを作ったのは西村真琴さん。ロボット工学の専門家ではなく、阿寒湖のマリモの保護に尽力した植物学者です。
ロボットの名前「学天則」は「自然の法則に学ぶ」という意味。
西村さんは外国のロボットがモーターで歯車を動かす機械人形であることに反発を感じ、圧縮空気を使って筋肉の柔らかな動きに近いゴム管を動かす、自然界の生物...人間らしいロボットを作ったのです。
外国ではこのような発想と技術で作られたロボットの例はなく、学天則はその後ヨーロッパに運ばれて展示されました。

北海道の自然の中でマリモの研究をし、晩年は全日本保育連盟を結成して子どもたちの保育に力を注いだ西村さん。
自然と人間を愛するからこそ、やさしく微笑むロボット学天則を作ることができたのです。

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