2019年7月アーカイブ

2019年7月27日「思い出ベンチ」

大都市ニューヨークの緑豊かな公園セントラルパーク。
市民に愛され観光地としても人気ですが、1960年代から70年代の頃、公園は犯罪が多発する危険な場所となり、またニューヨーク市が財政難に陥ったこともあって荒廃の一途をたどりました。

こうした中で、市民団体が発案して始まったのが「The Adopt-A-Bench program」。
公園のベンチを養子にするというアイデアで、寄付をすると「養子」になったベンチの背もたれに、メッセージを刻印したプレートが取り付けられるのです。
その数は、現在4000余りに上り、プレートには思い思いのメッセージが刻まれています。

男性から愛する女性へ「I Love You. Will You Marry Me?」とプロポーズの言葉が刻まれたもの。
「お父さん、ここであなたと鬼ごっこやたこあげをして遊んだことを私達はいつまでも覚えています」という子供達からの贈る言葉が書かれたもの。
そのひとつひとつが公園を訪れる人の心を温めます。

実はこれをヒントに東京都が平成15年から始めたのが「思い出ベンチ」。
都内の公園では、すでに1017のベンチが様々な思いを伝え、今年も令和元年の募集が始まっています。

もしも、あなたの思い出の公園でも始まったら・・・どんな言葉を託しますか?

2019年7月20日「星をめざす少年」

1969年のきょう7月20日、アポロ11号が月面に着陸。人類が初めて月の上に立ちました。
1976年7月20日には、探査機バイキング1号が初めて火星に着陸。
そして2011年、米航空宇宙局NASAが火星へ人間を送る計画を発表したとき、一人の少年がNASA宛てに手紙を書きました。

「僕はデクスター。火星に人を送ると聞いたので僕も行きたいけれど7歳なので無理だと思います。でもいつか行きたい。宇宙飛行士になるにはどうすればいいですか?」
少年の母親は、こんな手紙は世界中の子どもたちから届いているから返事は期待できないと考えながら投函しました。

ところが後日、ポストにNASAからの返信が入っていてびっくり。
手紙には手書きでこう書かれていました。
「デクスター君へ。NASAに興味を持ってくれてありがとう。想像してごらん。数年後、宇宙や地球を研究するトップクラスのチームに君が加わっていることを。NASAは君が星をめざし続けることを応援しています」

手紙には宇宙飛行士を目指す上で参考となるウェブサイトのリストを紹介し、さらに
「もし学校や家でインターネットが使えないなら、近所の図書館に行ってパソコンを使わせてもらいなさい」というアドバイスまで綴られていました。

少年のまっすぐな夢に誠実に応える、これがNASAの懐の深さなのです。

2019年7月13日「戦場の投げ文」

今から115年前、明治37年に起きた日露戦争。
とりわけ旅順の攻防戦は熾烈な争いとなりました。
その極限の戦場で、こんなエピソードがありました。

日本軍とロシア軍が対峙しているときのこと。
ロシア軍の陣地から日本軍の陣地におもりを付けた封筒が投げ込まれたのです。
それを拾った日本兵が開けてみると、中にロシアの貨幣と手紙が入っています。
手紙にはロシア語でこう書かれていました。
「日本の将校にお願いする。私の母に電報を打ってもらいたい。電文は"自分は元気でいる"としてほしい。その費用として10ルーブルを添えた」
手紙の末尾には届けるべきロシアの宛先が記されています。

翌日、今度は日本の陣地からロシアの陣地に手紙が投げ込まれました。
手紙の内容は次の通り。
「君の電報は使いを指令本部に遣わして打電させた。電報は上海を経由して君の母の手に届くであろう。料金は足りないが、我々は君の母を思う情に打たれ、個人として喜んで不足分を補っておいた」

この話は当時の「富士日報」の記者が伝えたものです。
極限状態の戦場で敵どうしとして対峙する間柄であっても、親を想う気持ちに隔たりなどなく、人と人との間では敬意や礼節、思いやりを忘れない。
人として大切なものとは何かを語りかけてくるようです。

2019年7月6日「ソックモンキー」

1929年10月24日、ニューヨークで株価が大暴落したことから世界中に広がった世界大恐慌。
米国では5000万人の失業者が溢れ、多くの人たちが貧しい生活を余儀なくされました。
子どもたちの暮らしも例外ではなく、遊ぶおもちゃさえ買ってもらえません。

ある炭鉱町で暮らすおばあちゃんは、幼い孫が何一つおもちゃを与えられていないことを不憫に思っていました。
でもお金はありません。
ふと窓の外を見ると、おじいちゃんの使い古した一足の靴下が干してありました。
おばあちゃんは閃きます。
「この靴下で人形を作れないかしら。」

当時、かかと部分を赤い布で補強した「レッドヒールソックス」と呼ばれる靴下が、労働者に愛用されていました。
この赤いかかとに注目したおばあちゃんは、片足の赤い部分を顔に、もう片足の赤い部分をお尻に見立ててサルの人形を作り上げたのです。
人形を手にした孫は大喜び。

そのことが口コミで広がっていき、同じものが一つとしてないおサルの人形
「ソックモンキー」が、全米のお母さんやおばあちゃんの手で作られ、子どもたちに愛されました。

それから90年経ったいま、レッドヒールソックスは現在も製造・販売され、そのパッケージの中にはソックモンキーの作り方が添えられています。

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