2019年3月アーカイブ

2019年3月30日「日本最古のソメイヨシノ」

今年も桜前線が北上中ですが、病害虫に弱いソメイヨシノの寿命は60年から80年ほどとされる中、樹齢137年、日本最古といわれるのが青森県の桜の名所、弘前城で、毎年見事な花を咲かせる1本のソメイヨシノの銘木です。

明治になって間もなく、りんごの栽培と普及に取り組み「青森りんごの開祖」と謳われる菊池楯衛が明治15年に植えたものですが、旧弘前藩士であった菊池は廃藩後、荒れ放題となった弘前城に胸を痛め、千本のソメイヨシノを寄贈して植樹。
ところが、当時は「城で花見酒とはもってのほか」と切られたり引き抜かれたりして、多くは成木にすらならなかったと言います。

しかしその後も同志によって植樹が続けられ、さらに「枝は切らぬもの」とされた桜に、りんごの栽培で培った剪定を軸とした「弘前方式」と呼ばれる管理技術を導入して、弘前城を擁する弘前公園の桜を、たくさんの花を付ける見事な桜へと育てました。

今日、樹齢100年を超える桜は300本を超え、多くの専門家から賞賛されるまでになったのです。
菊池が72歳で亡くなったのは大正7年4月。
その翌月の5月に開催された第一回観桜会は、101年たった今も、多くの人々が訪れる「弘前さくらまつり」へと続いています。

2019年3月23日「昇降機ガール」

いまから162年前、1857年のきょう3月23日、世界初の実用エレベーターがニューヨークのデパートに登場しました。
日本では関東大震災を契機に、木造建築から地震に強い鉄筋のビルに建て替わっていった昭和初期からエレベーターが普及していきました。
東京のデパート・上野松坂屋もそのひとつ。震災で焼けた後、昭和4年に8階建てのビルを新装開店してエレベーターを設置します。
そのエレベーターと同時に日本で初めて登場したのが、「エレベーターガール」です。

華やかな制服姿でエレベーターを操作しながら来店客を誘導し、優雅にフロアごとの案内をするエレベーターガールは評判となり、他のデパートでも次々に採用。
彼女たちの姿を一目見ようと、週末のデパートのエレベーター前には長蛇の列ができたもので、当時の女の子にとってエレベーターガールは憧れの職業となりました。

平成31年のいま。
エレベーターはだれでも行きたいフロアのボタンを押すだけで安全に使えるものへ進化し、エレベーターガールは姿を消していきましたが、店を代表するシンボルとして、いまなおエレベーターガールを採用しているデパートもあります。

日本独自の文化のひとつとして外国の特派員記者をも感銘させたエレベーターガールという仕事。
そのおもてなしの心は、平成の次の時代に受け継がれていってほしいものです。

2019年3月16日「将軍の目安箱」

江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が推し進めた亨保の改革。その政策の一つに目安箱の設置があります。
これは江戸の庶民が直接、将軍の吉宗に願い事を書く投書箱。投書が入った目安箱は鍵をかけたまま吉宗のもとへ運ばれ、吉宗の前で鍵を開け、吉宗自ら投書を読むのです。
この投書から生まれたのが、小石川薬園内の養生所や荒れ地の開墾。役人の年貢の取り立て過ぎや不正も暴き立てられました。
現代風にいえば徳川将軍と庶民とのホットライン。しかし投書は無記名ではなく住所と名前を書いた上での将軍への訴えなので、相当の勇気が必要でした。

あるとき、目安箱の中に山内幸内という浪人からの投書がありました。
そこに書かれていたのは「将軍が贅沢を禁じ倹約を勧める経済政策を行ったのは間違い。お金は天下に使って回すべし」といった内容。吉宗をダイレクトに批判したのです。
庶民が将軍を批判することは当時としては切腹か打ち首です。
果たして山内幸内は江戸城に呼びつけられました。
しかしそこで吉宗は、処罰も恐れず堂々と自分の意見を述べた山内の勇気を誉め讃えて、褒美まで与えたのです。

名君と呼ばれた吉宗の言葉が残っています。
「このような者を無礼であると罰すれば、世の中は物を言わなくなってしまう。それこそが幕府にとって大きな損失なのである」

2019年3月9日「命を慈しむ詩人」

明日3月10日は「みすゞ忌」。童謡詩人・金子みすゞの命日です。
『赤い鳥』などの童話童謡雑誌が次々と創刊された大正時代。その中で彗星のごとく現れたのが、金子みすゞでした。

明治36年に現在の山口県長門市に生まれた彼女が童謡を書き始めたのは20歳の頃。
4つの雑誌に投稿した詩がすべてに掲載され、童謡詩人の大家・西條八十に「若き童謡詩人の巨大な星」と賞賛されました。
自然とともに生き、小さな命を慈しみ、命なきものにさえ向けられた優しいまなざし。
金子みすゞは次々と名作を発表します。

しかしその生涯は決して明るいものではありませんでした。
23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩の創作を禁じられてしまい、さらには病気、離婚と苦しみが続きました。
ついには夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ったみすゞ。
やがて彼女の存在や作品は忘れられ、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまったのです。

死後半世紀が経った頃、500点以上の未発表作品が発見され、全集が刊行されると、金子みすゞの作品群に再び注目が集まりました。
自然の風景をやさしく見つめ、優しさに貫かれた作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。

2019年3月2日「憎しみを超えて」

ノルウェーの探検家アムンゼンは、1911年に人類史上初めて南極点に到達した人物として有名です。
その後1926年に北極点にも到達していますが、そのことを知る人はあまりいません。それには訳があるのです。

アムンゼンは北極点をめざすのに飛行船を使う計画を立て、操縦士としてノビレ以下15名の探検隊を結成しました。
飛行船は無事に北極点に到達しましたが、飛行が成功するとノビレは「この計画は自分が中心となって実行され、アムンゼンを含め他のメンバーは乗客に過ぎない」と主張。
さらに勝手に探検の手記を発表したことから、北極点到達の名誉はノビレに渡されたのです。
ノビレの言動にアムンゼンは激しく怒り、憎むべき相手として絶交します。

それから2年後、ノビレは飛行船で再び北極点に向かいましたが遭難し、各国から国際的な救助活動が展開されました。
ノビレ遭難の情報を聞いたアムンゼンはどうしたのか?
彼は迷うことなく自家用飛行機に乗り、憎しみを超えて絶交した仲間の救助に向かったのです。
ノビレは他の救助隊に助け出されましたが、救助に向かったアムンゼンはそのまま行方不明になってしまいました。

いまなおアムンゼンの遺体は発見されていませんが、彼を尊敬する有志たちによって、定期的な捜索活動が現在も続いています。

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