2017年9月アーカイブ

2017年9月30日「大三島のサツマイモ」

実りの秋が訪れていますが、この時季に収穫期を迎えるサツマイモは、江戸時代に中国から琉球を経て薩摩藩に伝えられ日本各地に広まりました。
しかし、実は薩摩藩は芋の持ち出しを固く禁じていたと言われます。
それを密かに持ち出したのが下見吉十郎秀譽(あさみ・きちじゅうろう・ひでたか)でした。

瀬戸内海に浮かぶ大三島に生まれ育った吉十郎は、我が子を相次いで亡くす不幸に見舞われ、冥福を祈って諸国巡礼の旅に出ます。
その旅の途中、薩摩の農家で振る舞われたサツマイモが痩せた土地でも容易に栽培できることを知って、農家の主人に涙ながらに懇願して種芋を譲り受けると、一説には仏像に穴を開けて種芋を隠し、命がけで持ち出しますが、このとき吉十郎は「公益を計るがために国禁を破るが如きは決して恐るるに足らず」と決意したといわれます。
そして大三島に持ち帰って栽培に成功すると、島の人々に配って栽培法も伝授し、サツマイモの普及に努めたのでした。

その後に起きたのが100万人近い餓死者を出したと言われる享保の大飢饉ですが、大三島や周辺の島々では一人の餓死者も出さずに乗り越えたのです。

多くの命を救った吉十郎の功績を称えて、大三島の甘藷地蔵(いもじぞう)を始め、島々には何体ものお地蔵様が建立され大切に受け継がれています。

2017年9月23日「惑星泥棒」

太陽系8番目の惑星・海王星が1846年9月23日に発見されました。
それ以前に発見された天王星の軌道が乱れていることが観測され、天王星の軌道の外側に未知の惑星が存在し、その引力で天王星の軌道が乱れている・・・そう考えたのがフランスの数学者ルベリエです。

彼は数学的計算で未知の惑星の位置を予測。
そのルベリエの依頼でドイツ・ベルリン天文台の職員ガレがその方角に望遠鏡を向け、わずか30分で青く輝く小さな未知の星を確認。
計算によって位置を確定したルベリエと望遠鏡で確認したガレの二人が、海王星の発見者と認定されました。

ところが、ルベリエに先立つこと4年前、イギリス・ケンブリッジ大学のアダムスが同様の研究・計算を行い、海王星の位置を確定していました。
彼もまたグリニッジ天文台に望遠鏡で確認するよう依頼。
しかしグリニッジ天文台は、アダムスがまだ学生だという理由でこれを拒否したのです。
このことが判明すると、国際天文学会では「どちらが発見者でどちらが泥棒なのか」と大騒ぎ。
でもその場で初めて対面したルベリエとアダムスは、お互いを知らずに同じ計算を成し遂げて海王星の位置を特定したことを誉め讃え、科学者として固い友情を結びました。

ちなみに現在では、海王星の発見者としてルベリエとガレに続いてアダムスの名も刻まれています。

2017年9月16日「ネコの手を借りる治療」

18世紀になり、人間の体がどうなっているかを調べる解剖学によって近代医学が始まったとされています。
その近代医学の発展に貢献した一人が、イギリスの解剖学と外科医学の教授を務めたジョン・アバネシー。
動脈瘤における外腸骨動脈の結紮(けっさつ)手術の創始者で、血管を糸で結ぶ結紮は今日では手術を行う外科医にとって基本の技術になっています。
いわばアバネシーは外科手術の草分けなのですが、本人は「手術は外科の恥である」と公言してはばからず、緊急の場合しか手術をせず、症状によっては自然治癒に任せることが多かったようです。
そのことがまたアバネシーの名声を高め、彼の診察を求める患者は増える一方でした。
が、アバネシーの名を高めたもう一つの要因があります。
それはときとして、とんでもない冗談を言うこと。

ある真夜中に誰かがアバネシーの家の戸を激しく叩きます。
医者の家に深夜訪問するのは急患に決まっています。
でも、アバネシーは世の中のすべての医者同様、夜中に叩き起こされることが大嫌いでした。
ドアを開けると一人の男が青ざめて立ちつくし、こう叫びました。
「先生、大変です。早く来てください!息子がネズミを飲み込んでしまったんです」
するとアバネシーは眠そうにこう答えたそうです。
「どうってことはない。すぐにネコを飲ませなさい」

2017年9月9日「数学者からの手紙」

ピーター・ディリクレは19世紀ドイツの数学者。
解析学や整数論で業績を成し、「ディリクレの算術級数定理」など彼の名を冠した定理や原理、理論が17もあります。

そんな偉大な数学者の妻となったのは、作曲家メンデルスゾーンの妹レベッカ。名門音楽家の出身だけあって華やかな社交家で、よく音楽家や文学者などを家に招いてサロンを開きました。
ところが偉大な数学者の夫ディリクレは人付き合いが大の苦手で、音楽や文学のこともさっぱりわかりません。
そこで妻がサロンを開くときは、書斎に籠って出てきませんでした。

人付き合いの悪さもさることながら、ディリクレは筆不精でも有名。
電話もメールもない19世紀で遠くの人に何かを伝えるのは手紙だけ。
しかも彼は手紙を書くということが死ぬほど嫌いだったのです。

そのディリクレが、どうしても手紙を書かなければならないはめになりました。
それは妻レベッカとの間に子供が生まれて、そのことを外国に暮らす両親に知らせなければならなかったのです。
ディリクレは渋々手紙を書いたのですが、それは文章ではなく、次のような簡単な数式でした。
「2+1=3」

偉大な数学者は、夫婦の間に一人の子供ができたことを、数学で表現してみせたのです。

2017年9月2日「大富豪列伝」

世の中に富豪と呼ばれる人物は数多くいますが、19世紀に大財閥ロックフェラー家を興した石油王ジョン・ロックフェラー1世こそ史上最大の資産を持った大富豪だといわれています。

彼は石油業界を独占する実業家として世界一の富豪になりましたが、その一方で、資産を家族のためだけではなく、社会のためにも惜しみなく使う世界一の慈善事業家としても名を馳せています。
医療・教育・科学研究促進などのために財団を創設し、寄生虫による病気や黄熱病の根絶に貢献。また、シカゴ大学はじめさまざまな教育施設への創設資金を提供しました。
しかし自分自身に対しては節約を旨とする人物だったことでも知られています。

ロックフェラーがワシントンに出かけてホテルに泊まったときのこと。
彼は受け付けの支配人に「バスルームなしでいいから一番安い部屋をお願いしたい」と言いました。
支配人はびっくりして「ロックフェラー様、いくらなんでもそんなお部屋をお望みなんて...」と目を白黒。
「ロックフェラー様のご子息様がお泊まりのときだって、いつも最高級の部屋をお取りになるのですよ」と困惑する支配人に、ロックフェラーは笑いながらこう答えたのです。
「いやいや、倅は大金持ちの父親を持っているからね。だがあいにく私にはそういう父親はいないのだよ」

アーカイブ