2017年4月アーカイブ

2017年4月29日「アメリカ大統領の友人」

日露戦争開戦が決定した時、国力に大差のあるロシアとの戦いに反対であった伊藤博文は、アメリカのルーズベルト大統領に和平の調停を依頼するため金子賢太郎を派遣します。
福岡藩士だった金子は、明治4年に旧福岡藩主・黒田長溥の抜擢でアメリカに留学してハーバード大学に学び、帰国後は政治家として活躍。
大統領とは大学の同窓という縁で親交を深めていた金子に、伊藤は望みを託したのです。

渡米した金子を待っていたのは、ルーズベルト大統領の熱烈な歓迎と協力でしたが、大統領は公式には中立の立場でした。
金子は世論を味方にするため精力的に講演を行う中、ロシア海軍の名将マカロフの戦艦が日本海軍の機雷によって沈没すると、マカロフの死を悼み演説で哀悼の意を捧げたのです。

この武士道の精神にアメリカの人々は深く感銘を受けます。
こうした中で、ルーズベルト大統領はポーツマス講和会議開催を仲介。
会議で交渉が暗礁に乗り上げると、助力を求める金子に応えて尽力し日露を講和へと導いたのでした。

金子が89歳で亡くなったとき「ニューヨーク・タイムズ」は追悼記事で「ルーズべルト大統領の友人・日米間の友好を説いた平和の唱道者」と最大の賛辞を贈ります。
第二次世界大戦の最中の昭和17年5月ことでした。

2017年4月22日「カタルーニャの英雄」

明日4月23日は「サン・ジョルディの日」。
親しい人に本や花を贈り合う、スペインのカタルーニャ地方伝統の記念日です。

昔々、カタルーニャが独立した王国だったころ、恐ろしい龍が暴れ回り人々を苦しめていたので、それを鎮めるために毎日生け贄を捧げていました。
ある日、王様の娘が生け贄になる順番が回ってきます。
大勢の国民が身代わりになることを申し出ますが王様はそれを断り、泣く泣く王女を生け贄に差し出したのです。

ところが王女が龍の餌食になるそのとき、白馬にまたがり黄金の甲冑を身に着けた騎士サン・ジョルディが現れ、龍と戦います。
ジョルディの剣が龍の心臓を突き刺して倒すと、流れた龍の血からバラの花が咲き乱れていきました。
ジョルディはその中から最も美しい赤いバラを手折り、永遠の愛のシンボルとして王女に贈ったのです。めでたしめでたし。

この伝説から、カタルーニャの人々はジョルディの命日とされる4月23日を「サン・ジョルディの日」と定め、愛する人たちに美と教養、愛と知性のシンボルとして、1本のバラと1冊の本を贈るようになりました。

英雄サン・ジョルディの名は、スペインの一部でありながら独自のカタルーニャ語を公用語として自治を守る、カタルーニャの人々の心の支えとしても深く根付いています。

2017年4月15日「雨を降らせる男」

ブラジル・サンパウロでは日照りが続いて水不足になると、水道局がある人に「雨を降らせてほしい」と依頼します。
その人は日系二世の今井威(たけし)さん。
依頼を受けた今井さんはセスナ機に乗って空に舞い上がります。
そして雲の中に入ると、積んでいた300リットルの水を60μ(ミクロン)の霧にして雲の中に噴射。すると15分後には雨が降り始め、2、3時間にわたってサンパウロの町に降り注ぐのです。

薬品を使って人工的に雨を降らせる方法はありますが、体に無害な水を使う人工降雨システムは世界で初めて。
1リットルの水から50万リットルの雨を産み出す計算になります。

今井さんは若い頃、農業用殺虫剤噴霧器のメーカーを経営していましたが、人体に有害な殺虫剤が嫌で、電動ノコメーカーに転向。
でもあるとき、自社のノコギリで樹齢何百年の木が切り倒されたのを見て
「命あるものを殺す仕事ではなく、命に恵みをもたらす仕事をしたい」と
大学で気象学の勉強を始め、人工降雨システムの研究に没頭したのです。

水を使う人工降雨をしながら、今井さんは水不足の根本解決は植林だと考え、50haの土地に1時間で5万の苗を植える種植え機を研究していました。
しかし2013年、心臓病のため72歳で死去。
命に恵みをもたらしたいという思いは、彼の会社のスタッフたちに引き継がれています。

2017年4月8日「浅利売りの少年に教わる」

明日、4月9日は「しっくい」という語呂合わせで、左官の日。
左官は建築工事で塗り壁を塗る職人ですが、専門技術とセンスが必要とされ、一朝一夕で簡単にできるものではありません。
また、左官の塗り壁は芸術とも捉えられ、中にはその技術を作品として海外へ伝えている職人もいるほどです。

その草分けとされるのが、幕末から明治期に活躍した「伊豆の長八」と呼ばれる左官。自由な発想をもった長八は実用だけの仕事に満足できず、漆喰に色を付けた立体的な漆喰彫刻を考え出します。
この建築装飾は漆喰鏝絵と呼ばれ、長八は鏝絵の名人と崇められました。

そんな長八が江戸の魚問屋の注文で鯛の鏝絵をこしらえました。
「我ながら良い出来」と眺めていると、そばにいた浅利売りの少年が
「へただ。親方は江戸前の鯛を知らないね」と言います。
「何を!」と怒る長八に、少年は「本物を見せてやる」とひとっ走り河岸へ行って鯛を求め、それを長八の前に並べて講釈します。
「こっちが江戸前。網にかかった後に籠で囲われた鯛は、心配ごとがあるのか、面(つら)にシワがある。そっちは伊豆生まれの鯛。海岸の岩の貝を突き壊して食べるので、ほら、鼻が曲がっている」

これを聞いた長八は「初めて鯛の見分けを知った。名人とおだてられた自分が恥ずかしい」と、ただちに塗り直したそうです。

2017年4月1日「ウグイス嬢物語」

この春もプロ野球の公式戦が開幕しました。
野球の試合で場内アナウンスをする女性のことを「ウグイス嬢」といいますが、日本で初めてウグイス嬢が鳴き声を上げたのは昭和22年。
それ以前は男性がアナウンスしていました。

初のウグイス嬢となったのは、元NHKで事務職員をしていた青木福子さん。
プロ野球放送のアナウンサーの先輩職員に推薦されて日本野球連盟に場内アナウンサーとして雇われます。
ところが、じつは彼女は野球のことを全く知らなかったのです。
例えば「バッターがボールを打つとなぜ走るの?」といった具合。

慌てたのは野球連盟です。
いまさら野球に詳しい人を捜す時間もないので、青木さんでいくしかない。
連盟の職員や審判が講師となって毎日のように野球の講義を行い、その甲斐あって、半年後には青木さんは野球の世界をすっかり理解し、スコアまでつけられるようになりました。
そして昭和22年4月3日、東京・後楽園球場でウグイス嬢としてデビュー。
詰めかけた観客たちはその美声に酔いしれたそうです。
この評判を受けて日本のプロ野球界はすべて場内アナウンスを女性にしていきました。

ちなみにアメリカの大リーグなどは現在も伝統的に場内アナウンスは男性。
つまり、青木福子さんは日本初というより、世界初のウグイス嬢だったのです。

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