日露戦争開戦が決定した時、国力に大差のあるロシアとの戦いに反対であった伊藤博文は、アメリカのルーズベルト大統領に和平の調停を依頼するため金子賢太郎を派遣します。
福岡藩士だった金子は、明治4年に旧福岡藩主・黒田長溥の抜擢でアメリカに留学してハーバード大学に学び、帰国後は政治家として活躍。
大統領とは大学の同窓という縁で親交を深めていた金子に、伊藤は望みを託したのです。
渡米した金子を待っていたのは、ルーズベルト大統領の熱烈な歓迎と協力でしたが、大統領は公式には中立の立場でした。
金子は世論を味方にするため精力的に講演を行う中、ロシア海軍の名将マカロフの戦艦が日本海軍の機雷によって沈没すると、マカロフの死を悼み演説で哀悼の意を捧げたのです。
この武士道の精神にアメリカの人々は深く感銘を受けます。
こうした中で、ルーズベルト大統領はポーツマス講和会議開催を仲介。
会議で交渉が暗礁に乗り上げると、助力を求める金子に応えて尽力し日露を講和へと導いたのでした。
金子が89歳で亡くなったとき「ニューヨーク・タイムズ」は追悼記事で「ルーズべルト大統領の友人・日米間の友好を説いた平和の唱道者」と最大の賛辞を贈ります。
第二次世界大戦の最中の昭和17年5月ことでした。