小学校の入学準備に欠かせない文房具といえば鉛筆ですが、明治時代に新たな筆記具として鉛筆の生産と普及に力を注いだのが佐賀出身の眞崎仁六(まさきにろく)でした。
二十歳のときに明治を迎え、上京後、貿易商社に入社した眞崎は、明治11年にパリ万国博覧会で初めて鉛筆に出会って心を揺さぶられ「これを日本でも生産する」と決意したといわれます。
帰国後は、仕事の傍ら独学で製造方法を研究し、試行錯誤の末に鉛筆の芯の素材は鹿児島産の黒鉛と栃木の粘土、軸の木材は北海道のアララギが適していることを突き止め、また、製造機械の設計などにも苦心を重ねて、ついに9年後、眞崎鉛筆製造所を設立し国産鉛筆の製造を開始。
これが日本の鉛筆の工業生産の始まりといわれ、明治34年には当時の逓信省の「御用品」に採用されて全国の郵便局で鉛筆が使用されるようになったのでした。
これを記念して創られたのが、佐賀藩士だった眞崎家の家紋三つ鱗から考案された三菱の商標で、今日の三菱鉛筆へと受け継がれてゆくのです。
文明開化の明治時代に鉛筆の製造に取り組んだのは眞崎だけではありません。多くの人々の新たな時代への熱意と挑戦が、この春も多くの子供達が手にする筆記具、鉛筆の礎となったのです。