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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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2017年3月19日「職工」ではなく「工場員」

大正3年3月20日、東京・上野公園で、東京大正博覧会が開催されました。
来場者の人気を集めたのは、日本初のエスカレーターやロープウェー、そして日本初の量産型国産自動車・ダット号です。
だれもが乗れる乗用車の開発にチャレンジしたのは、橋本増治郎。
若くして渡米し、蒸気機関車の製造工場で働いた経験を持つ技術者です。

橋本は建坪37坪に5台の工作機械を備えた、ささやかな町工場の会社を立ち上げて6名の工員を雇います。
このとき、米国で働いたことがある橋本は労働者の社会的地位の向上を願って、当時の日本での呼び名である「職工」「小僧」を改め、「工場員」と呼ぶことにしました。
また、当時の作業服だった草履と和服を替えて、作業の安全を考慮した革靴を支給。橋本の妻は6人の工員一人一人の背丈に合わせた作業服をミシンで縫い上げ、それに誇りと自覚を託して支給しています。

輸入車の組み立て販売や修理で糊口をしのぎながら国産自動車の研究試作を続け、2年後についにダット号の第1号車が完成。
橋本は涙を浮かべて6人の工員と喜びを分かち合いました。

自動車王国となった現在の日本。
ダット号もダット号を産んだ会社もこの世にありませんが、橋本増治郎の名は、国産自動車製造の先駆者として平成14年に日本自動車殿堂入りしています。