2016年10月アーカイブ

2016年10月30日「松寿丸の銀杏」

今年も紅葉の季節迎えていますが、岐阜県垂井町の樹齢400年という銀杏の大木は、かつてこの地を治めた竹中家と、福岡藩主黒田家の長い絆の歴史を伝えています。

福岡藩初代藩主、黒田長政が松寿丸と呼ばれた幼い頃、織田信長は父親の官兵衛が寝返ったと思い込み松寿丸の処刑を命じますが、このとき官兵衛の無実を信じる竹中半兵衛が命がけで松寿丸を匿い命を助けたのです。
その後、疑いが晴れ、松寿丸が生かされていたことが明らかとなって、黒田家は喜びに沸き返ります。
竹中家を去るとき、松寿丸が感謝と共に植えたと伝わるのが銀杏でした。

両家の絆はその後も続きます。
垂井町に隣り合う関ケ原町は関ヶ原の戦いの戦場となりましたが、松寿丸こと長政は、匿われていたとき幼なじみとなった半兵衛の息子、重門と並んで陣を敷いています。
実は重門は西軍に与していましたが、長政が説得して東軍に引き入れ共に戦ったのです。
それは長政の恩返しだったのではないでしょうか。

両家の絆は長く続き、その歴史を見守り続けた銀杏は「松寿丸の銀杏」と呼ばれて地元の人々に大切にされていましたが、今年2月、衰弱が激しくついに切断されたのです。
しかし、根元から若木が育ち、絆の歴史を次の時代に伝えようとしています。

2016年10月23日「文字を運ぶ電線」

きょう10月23日は電信電話記念日。
明治2年のこの日、東京・横浜間を結ぶ電信線の工事が始まりました。
電信線とは電線に信号を送って通信する手段。
その始まりは電話ではなく、モールス信号による電報でしたが、当時の庶民には電報の仕組みが理解されていませんでした。

電報が始まった3年後の明治5年。
新橋・横浜間に鉄道が開通し、初めて汽車を見た人々はその速さに驚きました。
ある日、親子連れが新橋で汽車に乗るときに子どもだけ乗り損ねてしまいます。
慌てた両親が次の品川駅で降りて駅員に相談すると、すぐに新橋駅に電報を打って、新橋駅の駅員が子どもを保護して次の汽車で品川駅まで連れてきたのです。
この出来事を当時の新聞が大々的に報道。その見出しはこうです。
「鉄道より速い電報!」

この記事を見た人々は、電報は汽車よりもっと速いスピードで文字を運んでいるのか、とびっくりしたのです。
そこで、電線を通って文字が送られている様子を見ようと皆で電線を眺めたり、「文字を届けてくれるなら他のものも届けてくれるかも」と電線に弁当をくくりつけたりしたそうです。

それから百余年。
電信は電報から電話へ、そしてインターネットへと進化しましたが、電信の曙である電報は、いまも祝電・弔電という形で親しまれています。

2016年10月16日「休園日の動物園」

私たち九州や西日本に住む人から見ると首都・東京のターミナル駅は東京駅ですが、東北・北海道の人たちにとっては上野駅です。
東京駅の開業は大正3年ですが、煉瓦造りの上野駅はそれよりずっと前、明治18年のきょう10月16日に開業。
以来、ターミナル駅の草分けとして君臨してきました。

昭和30年代、東北方面から上京する人々は、上野駅に着くと上野公園に行って西郷どんの銅像や動物園を見て帰るのが、帰ってからの自慢話でした。
まだ本格的な動物園がなかった東北の人たちにとって、上野動物園にいる象やキリンやライオンを見ることは憧れだったのです。

ところで、動物園には休園日というものがあります。
東北から修学旅行の列車が次々に上野駅に到着しますが、せっかく上京しても上野動物園が休園日で動物たちに会えないことが分かると、子どもたちはがっかり。
これを気の毒に思ったのが、上野駅の駅長です。
動物園に乗り込んで、かけあったのでした。
そのときの言い分はこうです。
「動物園が休みといったって、動物たちが休むわけではなく餌を食べているので、世話をする人間もいるはず。だったら子どもたちを入れてあげてください」

それ以来、上野駅にやって来る修学旅行の子どもたちは、休園日でも上野動物園を見物することができたそうです。

2016年10月9日「1964年のおもてなし」

明日10月10日は「体育の日」。
現在は10月第2月曜日を体育の日としていますが、もともとは1964年10月10日に東京オリンピックが開催されたことを記念したものです。

この日、秋晴れの国立競技場で行われた開会式には93の国と地域から次々と選手団が入場してきました。
このときスタンドの大半を占めていた日本人の観客は、日本選手団の入場でとりわけ大きな拍手や声援を送ることはしませんでした。
日の丸の小旗を振ることもしませんでした。
米国などの大国だろうが、アフリカの小国だろうが、どの国の選手団が入場しても平等に同じ拍手を送ったのです。
現在、国際スポーツ大会の入場行進では、自国の選手に対してはこれでもかというくらい観客の拍手や声援が大きくなりますが、1964年の東京オリンピックはそうではなかったのです。

アジア初の大会となった東京オリンピック。
遠い極東の日本にはるばる世界中から選手たちが来てくれたのに、日本選手だけを贔屓にすることはできない。ましてや応援団がほとんどいなくて心細い思いをしている小国の選手に申し訳ない・・・そう思ったのかもしれません。

来る2020年東京オリンピックの誘致のキーワードは「おもてなし」。
1964年の東京オリンピックでも日本人観客一人一人の胸に、熱いおもてなしの心があったのです。

2016年10月2日「そして誰もいなくなった」

「交響曲の父」と呼ばれるのは18世紀のハイドン。
30年近くハンガリーの伯爵に楽団ごと召し抱えられ、数多くの作品を作曲したり、伯爵のために演奏会を催しました。

避暑地に別邸を持つ伯爵は、夏の半年をそこで過ごすため、ハイドンはじめ楽団員たちも単身赴任で別邸に同行していました。
ところがある夏、伯爵は6か月過ぎても帰ろうとせず、別邸生活は8か月目になったのです。
多くの楽団員から家族のもとに帰りたいと不満の声が上がりますが、この時代は封建制度。主君である伯爵に面と向かって苦情を訴えることはできません。

そこで楽長であるハイドンは一計を案じます。
すぐさまひとつの交響曲を作曲し伯爵の前でお披露目したのです。
そして、寂しげなエンディングのメロディに合わせ、オーボエやホルン、コントラバス、チェロ・・・と演奏が終わった順に一人ずつ譜面台の蝋燭を吹き消して退場してゆき、最後は二人のヴァイオリニストだけが寂しげに演奏を続け、消えるように音楽が終わると、その二人も蝋燭を吹き消して去っていきました。
つまりハイドンは楽団員たちの望郷の気持ちを演奏スタイルで訴えたのです。

また、伯爵もさるもの。演奏の意味をすぐに悟り、翌日には楽団員全員に休暇を与え、帰郷させたそうです。

この交響曲はハイドンの死後、『告別』というタイトルが付けられました。

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