2016年5月アーカイブ

2016年5月29日「ふる里復興!」

熊本地震によって熊本城が甚大な被害を受けていますが、東日本大震災でも福島県白河市の小峰城が石垣の崩落など多大な被害を受けました。

およそ400年の歴史を持つお城は白河市のシンボルで、その被災した姿に市民の落胆は大きく、震災からの復興の中、お城の修復にも力が注がれました。
市の文化財課は7000個に及んだという崩落した石に、ひとつひとつ番号を振り「石材カルテ」を作成するところから始めて、石垣の修復に伝統工法で取り組み、さらに修復の過程を見学会を開いては公開して、少しずつ復活していくお城の姿を市民に届けたのです。

そんな市の取り組みに応えて、見学会には多数の市民が参加。
石垣の大きな石、築石の裏側に小さな「裏込め石」を積む作業の際に、200円の寄付で石にメッセージを書き込むイベントが開かれると、大人から小さな子供まで参加して、様々な思いや願いを書き込んだ石を自分達の手で積み上げました。

全国でも例がなかった大規模な石垣の修復に力をあわせて取り組んだ白河の人々。そんな白河市に、苦難に直面している熊本市から相談の連絡が入り、白河市は助言を行って今後の協力を伝えたといわれます。

震災に見舞われ懸命に復興に取り組む人々が、ふる里復興を願う心で結ばれたのです。

2016年5月22日「生きること」

将棋の世界で29歳の若さで伝説となった棋士がいます。
村山聖。5歳のときから腎臓に難病を抱え、小学生時代はほとんど入院生活でしたが、そのとき出合ったのが将棋です。
めきめき腕を上げ、こども名人戦で4大会連続優勝。
プロになることを決意します。

その村山を弟子として迎え入れたのは 森信雄 七段。
病身の村山と同居し、体調が悪くて動けない彼に代わって雑事や買い物をするなど、周りから「どっちが師匠か分からない」と言われるほど親身な世話をして支えたのです。

昭和61年、村山は17歳にして四段に昇段してプロデビュー。同じく十代でプロになった羽生善治らと共に期待されました。
その頃の口癖は「名人になって早く将棋を辞めたい」。
自分に残された時間が少ないことを悟っていたのかもしれません。

平成7年、村山は八段まで上りつめます。しかし、この頃から病は急激に悪化。それでも苦痛を隠しながら名人戦に向けた対局を続けますが、ついに将棋の世界から去る日が来ます。
平成10年、29歳の村山聖は生まれ故郷の広島の病院でひっそりと息を引き取りました。
薄れゆく意識の中で彼は将棋の対局を思い浮かべ、「2七銀」と呟いたそうです。

その年に発行されていた将棋年鑑の棋士のプロフィールで、「今年の目標は」という質問に村山は「生きること」と書き残しています。

2016年5月15日「伝説の柔道家」

世界の格闘技の中で最強と噂されるのが、ブラジル発祥のグレイシー柔術。
そのルーツには一人の日本人が関わっています。
彼の名は前田光世。明治時代の講道館で注目された若手柔道家です。

明治37年、講道館は柔道を世界に普及させるために前田を米国へ派遣。
全米各地を回り、フットボール選手やレスラー、ボクサーらを相手に異種格闘技戦を行います。
米国で1000試合無敗という伝説を残した彼はそのままヨーロッパへ渡り、イギリスやフランス、スペインなどを回って柔道の強さを世界に知らしめたのです。

次に前田は中南米に目を向け、ブラジルの土を踏んだのが大正3年。
日本を離れてからもう10年経っていました。
前田の強さと礼儀正しい立ち振る舞いに、人々は尊敬の眼差しで彼を迎えます。
その一人がエリオ・グレイシー。
前田の門下生となって柔道を学び、独自の技術体系に確立したのが、グレイシー柔術なのです。

やがて前田は40の齢を迎えたのを機に柔道家としての活動を引退。
ふるさと日本に一度も帰ることなく、外務省の嘱託となって日本人移民をブラジルに根付かせるための活動に晩年の人生すべてを賭けました。

今年ブラジルで開催されるオリンピックでは、日本選手とブラジル選手の柔道が注目されます。
前田光世が生きていたら、さぞ感慨無量だったことでしょう。

2016年5月8日「裸の外交」

イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは政治家としての業績だけではなく、人柄もまた国民に愛された人です。
小太りの丸顔に山高帽を被り、葉巻をくわえる姿は、イギリスという国のシンボルとして親しまれ、良識ある紳士でありながら茶目っ気があるところも好かれていました。

そして、ユーモア。
彼の趣味は絵を描くことでしたが、あるときマーガレット王女が「あなたはなぜ風景画しか描かないの?」と尋ねます。
するとチャーチルはこう答えたのです。
「人間と違って、草や木なら描いた絵が実物に似ていなくても文句を言われないからでございます」

このユーモアのセンスは、本分である政治の中でも多いに発揮されています。
彼は首相に就任すると、さっそくアメリカを訪問。
ルーズベルト大統領と会談してアメリカの外交政策を探るのが目的でした。

ある朝、ルーズベルトがホワイトハウスに泊まっているチャーチルの部屋を訪れました。すると、部屋の中にはシャワーを浴びたばかりのチャーチルが素っ裸で立っています。
それを見たルーズベルトがあわてて部屋を出ようとすると、チャーチルが呼び止め、万歳の格好をして、こう言ったのです。
「このイギリスの首相は、アメリカ大統領に隠し立てするものは何一つありませんよ」

チャーチルは裸の外交を行ったというわけです。

2016年5月1日「1号機関車」

明治5年、日本で最初の鉄道が開業し、新橋・横浜間を蒸気機関車が走りました。 第1号の機関車はイギリスから輸入されたもので、走る姿は浮世絵にも描かれています。
40年近く活躍したのですが、性能が高い機関車に取って代わられ、明治44年に廃車処分になりました。

これに目を付けたのが、九州で島原鉄道を創業した植木元太郎。
彼はお払い箱となったこの機関車を客車ごと安く払い下げてもらい、島原鉄道の1号機関車にしたのです。
九州で安住の地を得た機関車は、島原の人たちに愛されながら走り続けました。

ところが昭和になるとこの機関車の歴史的な価値が見直され、当時の鉄道省は"買い戻して博物館に陳列したい"と島原鉄道に迫ります。
植木は開業時から長く会社を支えて苦楽を共にした1号機関車を手放す気持ちにはなれませんが、鉄道省に逆らうわけにはいきません。
昭和5年、鉄道省に返還された機関車のタンクには「別れを惜しむこと感無量。涙をもって送る。島鉄社長・植木元太郎」と書かれたプレートが貼付けられていました。

国の重要文化財に指定された1号機関車は現在、埼玉県の鉄道博物館に保存展示。その色と外観は新橋・横浜間を初めて走ったときを復元していますが、タンクには植木の惜別のプレートがそのまま貼付けられています。

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