今年も田んぼに初々しい稲の緑が広がっていますが、明治時代の北海道で懸命に米作りに取り組んだのが中山久蔵でした。
当時、北海道南部では僅かに米が作られていたものの、それ以外では稲作は不可能とされていました。
しかし明治4年に開拓民として入植した久蔵は、現在の北広島市に水田を開墾して稲作を開始。
厳しい寒さに阻まれ苦難の連続でしたが、久蔵は苗を発芽させるために風呂の湯を徹夜で水田に流し入れたり、川から田んぼまでの水路をジグザグに作り、冷たい水が日光で温まるようにするなど懸命の工夫と努力を粘り強く重ねて、ついに米の収穫に成功。
明治10年の第1回内国勧業博覧会では久蔵の米が表彰を受けるという快挙を成し遂げるのです。
また久蔵は寒さに強い品種を育てて種籾を増やしては農村を訪ね歩き、それを開拓民に無償で配って稲作の指導を行ったのです。
「米百万石の収穫を見ないうちは死ねない」と、固い決意と不屈の精神で米作りに挑戦した久蔵は大正8年に91歳で亡くなりますが、「北海道米百万石祝賀会」が札幌で開催されたのは、その翌年のことでした。
今日、米の収穫量で新潟と日本一を争うほどになった北海道で、中山久蔵は「北海道稲作の父」と讃えられています。