2016年4月アーカイブ

2016年4月24日「小岩井の井」

明治時代、近代化を図ることが急務だった日本で、数々の鉄道工事を指揮した明治政府の鉄道庁長官、井上勝は日本鉄道の父と呼ばれますが、実は、大農場誕生にも力を注ぎました。

始まりは明治21年のこと。
東北本線の工事視察のため盛岡を訪れ、岩手山山麓に広がる原野を見た井上は、鉄道敷設のために豊かな田や畑を数多く犠牲にしたことに思いを馳せ、原野を開拓して農場を拓きたいと願ったのです。
その思いに応えたのが、日本鉄道会社 副社長の小野義眞と三菱社 社長の岩崎彌之助でした。
こうして「小野・岩崎・井上」の三人の名字から「小岩井」と名付けられた農場が誕生するのです。

しかし、岩手山の原野は火山灰の地質に寒風が吹きつける荒地で、開拓は困難を極めます。それを支えたのは農場で働く人々でした。

当時の疲弊した農村の改革も目指した小岩井では、働く人々が家族と一緒に農場で暮らし、農場内には小学校まで作られたほどで、そうした取り組みの中で開拓は続けられ、やがて不毛の大地は緑豊かな大地へと生まれ変わったのです。それは井上に端を発した農業への志を受け継ぎ、不屈の精神でやり遂げた多くの人々の努力の結晶でした。

今、野に山に田畑に、私達の身近に輝く緑も、誰かの努力が支えているのです。

2016年4月17日「ケイコ 海へ」

20年ほど前、『フリーウィリー』という映画が大ヒットしました。
主人公の少年が水族館に飼われていたシャチのウィリーを海に逃がして自由にするという物語です。

ウィリーを演じたのは、実際に水族館に飼われていた芸達者なシャチのケイコ。
その後、ケイコは病気になります。
このニュースは大きな反響を呼び、「ケイコの病気を治して、映画と同じように自然の海に帰してあげたい」という声が巻き起こります。

これに応えたのが映画の制作会社。自然保護団体や海洋学者の協力を求め、ケイコを野生に戻す活動の基金を設立し、寄付を集めます。
治療専用の水槽が建設され、そこで病気を治すことに成功。
次にケイコを生まれ故郷の海に移し、ゆっくり時間をかけて慣れさせる訓練をしました。
そして2002年、ケイコは通りかかった野生のシャチの群れに合流して、映画と同じように野生に戻っていったのです。

ところが2カ月後。ケイコは1頭で戻ってきます。
それを知って押し寄せた見物客に向かって芸を見せるケイコ。
このシャチは仲間と自由に生きるより、人と生きることを選んだのです。

ケイコの野生復帰運動に取り組んだ関係者たちは、人に慣れた動物を野生に戻す難しさを思い知り、そんな動物の幸せはどこにあるのかということを考えさせられたのでした。

2016年4月10日「日本初の女性駅長」

いま鉄道の世界では運転士や車掌として多くの女性が活躍していますが、日本初の女性駅長が誕生したのは、大正4年のこと。

かつて関西に高野鉄道という私鉄がありました。
この鉄道の経営者は、小さな駅では社員ではなく一家族を雇って一駅を運営することを考えます。 一家で駅に住み込み、夫が駅長で妻が業務を補佐する仕組みです。

そんな中、大阪にある小さな芦原町駅に22歳のうら若き女性が駅長に就任しました。
黒い事務服にエプロンをかけた姿で毎日ホームに立っては挙手敬礼で列車を迎え、発車の合図をおくり、さらに出改札もこなすという一人勤務。
彼女の存在は沿線住民の間で人気を呼び、そのうえ乗客に親切だという評判から、遠方からわざわざ彼女を見に来る人や縁談を申し込む人も現れました。

ところが、彼女にはれっきとした夫がいました。
彼女とともに芦原町駅に住み、近くの会社に勤めるサラリーマン。
つまり、この夫婦は駅を運営する家族として選ばれたものの、昼間駅にいない夫に代わって妻が駅長に就任したというわけです。
彼女が既婚者と分かっても、沿線の人たちは日本初の女性駅長を町の自慢にしていたそうです。

それから100年後の現在、いまも南海電鉄高野線の駅として残る芦原町駅は、全国の小さな駅と同じように、無人駅。
女性駅長が活躍した面影はもうありません。

2016年4月3日「あんぱん事始め」

明治時代の流行語に「文明開化の7つ道具」というものがありました。
郵便・瓦斯灯・蒸気船・写真・軽気球・岡蒸気、そして残るひとつがあんぱん。西洋のパンが日本独自の菓子パンとなって、文明開化を代表する食べ物になったのです。

あんぱんを産み出したのは、木村安兵衛。
江戸幕府の下級武士でしたが、明治維新で職を失います。
そのとき安兵衛は52歳。当時としては隠居の身ですが、彼はこのとき西洋渡来のパンに出合い、持ち前のチャレンジ精神でパン屋を開業します。
しかし、パンは全然売れません。
当時の日本人にとって西洋のパンは珍奇な食べ物だったのです。

そこで彼は「日本人の舌に合うパンを作ろう」と考え、何度も失敗しながら試行錯誤します。その間、店は二度も火災にあって焼失。
それでもめげずに研究を重ね、ついに饅頭をヒントに麹と米で培養する酒種酵母菌を発明し、あんぱんが誕生したのです。

そのあんぱんに最初に目を付けたのは、山岡鉄舟。
明治天皇の侍従をしていた山岡は、その美味しさと安兵衛の真面目でひたむきな人柄を見込み、あんぱんを明治天皇へ献上するよう便宜を計らいました。

日本史の中で天皇が初めてあんぱんを口にしたのは、明治8年4月4日。
それを記念して明日4月4日は「あんぱんの日」です。

アーカイブ