2015年5月アーカイブ

5/31「二人のヨハン・シュトラウス」

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサートで必ず演奏される「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」。
この二つの曲には1800年代に音楽家として活躍した父と息子、ヨハン・シュトラウス?世と?世の物語が秘められています。

父ヨハンは貧しさの中から音楽の才能で身を起こし管弦楽団を結成すると、ワルツなど数々の作曲を手掛け、ウィーンの人々を魅了してヨーロッパ音楽界で成功を収めました。
ところが、息子が音楽家になることには大反対で、練習中のヴァイオリンを奪い取って床に叩きつけるほどであったといわれます。

しかし息子ヨハンは屈することなく猛勉強し18歳で楽団を結成。
父の妨害をはねのけて、初の演奏会を開き大成功を収めます。
この時から父と息子はライバルとなって火花を散らし、それが素晴らしい楽曲の数々を音楽界にもたらしました。
そして、父ヨハンが45歳の若さで亡くなると、息子はさらなる活躍で「ワルツの王」と讃えられるまでになるのです。

父から受け継いだ才能を父との闘いの中で花開かせた息子。
大きな壁となって息子の才能を育てた父。
音楽で深く結ばれた父と息子、二人のヨハン・シュトラウスの名曲は、今も多くの人々を魅了しています。

5/24「六甲山の開祖」

日本で初めてゴルフが行われたのは、明治36年のきょう5月24日のこと。
「神戸ゴルフ倶楽部」のオープンによって日本のゴルフの歴史が始まりました。

このゴルフ場を造ったのは、イギリス出身の実業家アーサー・ヘスケス・グルーム。彼は幕末の長崎でグラバー商会の社員として働いた後、独立して神戸で貿易会社を経営。
手つかずの自然が残る六甲山に分け入っては趣味のハンティングを楽しんでいました。
しかし長く日本で暮らすうち、趣味で多くの動物を殺めたことを後悔し、その償いとして、六甲山を神戸の人々が快適に楽しめるリゾート地にしようと思ったのです。

山に土地を借りたグルームは、仲間を集めて岩を掘り起し、雑草や笹の根を手鎌で刈り取るなどの手作業に汗を流し、5年の苦労の末にゴルフ場が完成。
またゴルフ場の他にも別荘を建て、私財を投げ打って登山道の整備や植林事業を行い、六甲山が避暑地・リゾート地として繁栄する礎を築きました。

晩年のグルームにひとつの逸話が残されています。
ある日、猟師に追われて別荘の敷地へ逃げ込んできた狐を匿いました。
狐は付近に住みつくようになり、グルームの膝の上で眠るほどに懐くようになりますが、他の人にはまったく懐かず、グルームが死ぬと姿を見せなくなったそうです。

5/17「日曜作曲家」

19世紀ロシアの作曲家ボロディン。
彼はロシア国民楽派の一人で、交響詩『中央アジアの草原にて』やオペラ『イーゴリ公』などで世界的に愛されています。
しかし、他の作曲家に比べると作品の数が少なく、また一つの作品を作るのに異様に長い時間を費やしています。

たとえば、出世作となった交響曲第1番は5年の歳月をかけて完成。
次の交響曲第2番は8年。オペラ『イーゴリ公』に至っては、なんと19年の歳月をかけてなお未完成。
これは彼が54歳で急死したためで、その後友人の作曲家がボロディンの残した書きかけの楽譜をかき集めて補い、なんとか世に出すことができました。
それにしても、なぜこれほど作曲が遅かったのか?

じつは彼の本職は音楽ではなく、医科大学の教授。
有機化学の研究では「ボロディン反応の化学式」の発見など多大な業績を残し、また女性の医療教育を提唱して多くの人材を育て上げた教育者でした。
その多忙な仕事のわずかな余暇を作曲に充てていたため、作品数が少なく完成まで長い年月が必要だったのです。

自分のことを日曜大工ならぬ「日曜作曲家」と謙遜して呼んでいたボロディン。しかし、わずかな時間をこつこつと積み重ね心血を注いだ彼の作品は、100年以上経った現代でも世界中の人々を魅了しています。

5/10「最後のキャッチボール」

昭和20年5月10日、鹿児島県鹿屋市の小学校の校庭でキャッチボールをしている若者の姿がありました。
24歳の石丸進一。プロ野球の選手です。

佐賀出身の石丸は佐賀商業高校の野球部でピッチャーとして活躍し、現在の中日ドラゴンズの前身「名古屋軍」に入団。昭和17年春の初登板で完封勝利を収めてデビューを飾ります。
彼は持ち前の豪速球と針の穴を通すほどの抜群の制球力ですぐにエースとして君臨。翌18年にはノーヒットノーランを達成し、20勝12敗・防御率1.15を記録しています。
しかしエースとはいえ、彼はスター選手の華やかさとは無縁の朴訥な性格と質素な暮らしぶり。登板しない日は野手でいいから試合に出してくれと監督に頼んだり、試合のないときは近所の子ども達を集めて草野球をしたり。とにかく野球が好きで好きでたまらない青年だったのです。

そんな石丸が昭和20年5月10日、鹿児島の鹿屋でキャッチボールをしていました。
10球ほど投げたところで彼は「よーし、これで思い残すことはない」と晴れやかな笑顔でボールを置きました。
そして翌日、彼は鹿屋の飛行場から南の空に飛び立って行ったのです。

現在、東京ドームの入り口そばに太平洋戦争で亡くなったプロ野球選手67人の慰霊碑がありますが、その中で神風特攻隊員として亡くなったのは、石丸進一ただ一人です。

5/3「安息の日本暮らし」

昭和8年のきょう5月3日、ウラジオストクから敦賀港に到着した客船から一組の夫婦が日本の土を踏みました。
ドイツの建築家ブルーノ・タウトと、その妻エリカ夫人です。
タウトは表現主義の建築で国際的な脚光を浴びた巨匠ですが、ナチスに迫害されて亡命し日本にたどり着いたのです。

二人は群馬県の八幡村で暮らしています。
そこで日課としていたのが散歩。農家の家々に立ち寄り、大黒柱を触ったり天井裏の棟木を覗いたりして建築家としての好奇心を発揮していました。
村人達も「タウトさん」「エリカさん」と親しく声をかけ、夫妻が立ち寄るとお茶を勧めるなど、その気さくなもてなしは国を追われたタウトの胸に深く染みました。

散歩に村の子供達が物珍しい外国人見たさからぞろぞろ付いて来ることがあり、これには閉口していましたが、灌木が生い茂る小径に差し掛かった時、その子供達が夫妻の歩く先に走り、両側の灌木の枝を押さえつけ、枝の先が二人に触れないようにしたのです。
この時の感動をタウトは日記にこう記しています。
「貧しい農家の子供なのに細かい心遣いをする。やはり日本なのだ!」

昭和11年にタウトが日本を去る時、八幡村の全村民が見送りに駆けつけました。
彼らの「タウトさん万歳!エリカさん万歳!」のエールに、タウトは日本語で「八幡村万歳!」と応えたそうです。

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