2015年3月アーカイブ

3/29「魔法の杖」

福岡から東京へ単身赴任した内田さんという男性のお話です。
50代になって初めての単身赴任生活でした。
毎日の通勤で利用する新宿駅は、乗降客数、世界一というだけあって、朝のラッシュタイムは駅も電車も、もの凄い人、人、人。
しかも、誰もが急いでいて気ぜわしく、歩くのもひと苦労でした。

そんな中、内田さんは足に大怪我をするのです。
一ヵ月近くも入院生活を送り、ゆっくりならなんとか歩けるまでに回復して、やっと退院しますが、心配なのはそれからの生活でした。
そこで、医師の勧めもあり、早く歩けないことをそれとなく知らせるためにも、杖をついて歩くことにしたのです。

もちろん、周りの迷惑顔が目に浮かびました。
ところが違ったのです。
満員電車の中で、慌ただしい人混みの中で、内田さんの杖に気がつくと、多くの人が「席をどうぞ」と代わってくれたり、歩く速度を緩めて、そっと道を開けてくれたり、数々の善意に出会ったのです。

「まるで魔法の杖のようだった」と語る内田さん。
でも一番の魔法は、「必要なときに、必要な人に、善意の窓は開けられる」
そのことを自分に気がつかせてくれたこと。

以来、東京の人混みは、内田さんにとって、とても温かいものになったのです。

3/22「ノリオくんのサクラ」

長野県塩尻市にはカタオカザクラという珍しいサクラが咲きます。
発見されたのは昭和20年。
小学校教師の久保田秀夫さんが山林の中で、発芽したばかりの若木なのにもう花をつけているサクラを発見し、「これは不思議だ」と自宅に持ち帰って鉢植えにしました。

その頃、久保田さんには待望の長男が誕生。
久保田さんが鉢植えのサクラを観察記録するそばで、よちよち歩きをするようになった長男はクレヨンでそのサクラの絵を描くのが日課となりました。
親子そろってサクラ観察の日々。
でもそれは長くは続きませんでした。
6歳になった長男は思いがけず病気で亡くなったのです。

その数年後、久保田さんはサクラの観察記録を植物分類学者の大井次三郎博士に報告します。それを見た大井博士は「これは新品種に間違いない」と、学会での発表を約束してくれました。

新しい植物が発見されて付けられる名前には2種類あります。
日本語の和名とラテン語で書かれる学名。
久保田さんが発見したサクラの和名は、発見場所の地名から「カタオカザクラ」と命名されたのですが、ラテン語で書かれた学名には「Norio」と読む単語が入っています。その意味は「ノリオくんのサクラ」。

大好きなサクラに名前が付く前に亡くなった長男・詔夫くんへの久保田さんの想いを、大井博士が汲んでくれたものなのです。

3/15「6本の手と30本の指」

1899年、ベルリン音楽大学でわずか12歳の少年がモーツァルトのピアノ協奏曲を弾き、ピアニストとして華々しくデビューしました。
アルトゥール・ルービンシュタイン。
彼は1976年にニューヨークのカーネギーホールで引退リサイタルを行うまで長い間活躍し、その流麗な指さばきは「6本の手と30本の指の持ち主」と賛辞され、20世紀最高のマエストロの一人とされています。

ルービンシュタインがピアニストになるきっかけは、彼が3歳のとき。
姉が家庭教師を付けて受けるピアノのレッスンをずっと聴いていた彼は、レッスンが終わると椅子によじ登り、姉が弾いていた通りにピアノを弾いたのです。
その天才ぶりに驚いた両親は、すぐさま家庭教師を姉ではなく3歳の弟に付けて猛特訓を強いることにしました。

カギを掛けた練習室に閉じ込められ、何時間もさせられる基礎練習。
まだ幼い彼はそんな練習が大嫌いでした。
この苦しみから逃れたい・・・
そこで彼は片手でピアノを弾き、もう一方の手で大好きな本のページをめくって読んだりチョコレートを食べたりしたのです。
そうとは知らず、教師は彼が一心不乱に練習しているものと思っていました。

こうしてルービンシュタインは、ピアノの練習をさぼるために「6本の手と30本の指」を身に付けていったのです。

3/8「東京駅の土俵入り」

大正3年に開業した東京駅。赤煉瓦の丸の内口駅舎は平成15年に重要文化財に指定され、昨年開業100周年を迎えました。

東京駅を設計したのは辰野金吾。明治の日本に西洋建築を取り入れた「近代建築の父」と呼ばれる巨匠です。
重厚かつ優雅な東京駅丸の内口駅舎ですが、その外観は横綱の土俵入りを表している、という説が近年出ています。
東京駅を正面から見ると、丸いドーム屋根は大銀杏で、横に長く伸びる駅舎は両手をいっぱいに広げてぐっと腰を割った低い姿勢。中央入口は顎を上げた顔で、皇居に向かって土俵入りを披露している、という姿なのです。

じつは辰野は大の相撲好きで、大相撲観戦を通じて角界と親しくなり、初代国技館の設計を引き受けています。
また、自宅の庭にバラック建ての土俵を造って、息子たちを相手に相撲を取ったり、宴会で興が乗れば相撲甚句を唸ったり、諸肌脱いで土俵入りの真似事をしたり、さらには、息子たちが高校生になると相撲部屋に通わせ、現役力士を相手に稽古をさせていたという逸話もあります。

それほど相撲を愛した辰野が設計した東京駅。
今となっては本人に真意を聞くことはできませんが、もし土俵入りの姿を意図して設計したのであれば、辰野金吾のその仕事ぶりこそが堂々たる横綱相撲といえるでしょう。

3/1「忙しい男」

『タイムマシン』『透明人間』『宇宙戦争』などの空想科学小説を著し、「SFの父」と呼ばれるのが、イギリスの小説家ハーバート・ジョージ・ウェルズ、通称H・G・ウェルズです。

彼は29歳で作家になり79歳で亡くなるまで百冊近くの本を出しましたが、それはSF小説に留まらず純文学や社会小説、文明評論の論文まで幅広く、一旦アイデアが浮かぶと食事中だろが真夜中だろうが、すぐに原稿用紙に向かいました。
また彼は第一次世界大戦の後、戦争を無くすために国際連盟の樹立を提唱。
論文を書いて講演旅行をし、国際会議にも出席しています。

そんな多忙なウェルズに常につきまとったのは病気。若い頃から気管支炎や神経炎、心臓病、腎臓病、糖尿病などに悩まされ、次々に発症する病気とも忙しく戦いながら、多忙な人生を過ごしたのです。

最後にウェルズを襲ったのは肝臓癌。日に日に衰えていった彼は誰とも会わずに自宅に寝たきりになっていましたが、ウェルズ危篤の知らせを聞いた親しい人たちが駆けつけました。

枕元を囲んだ人たちが「しっかりしろ」「頑張れ」などと励まします。
するとウェルズはちょっと迷惑そうな顔をしてひと言。
「わしは今、死ぬのに忙しいのだ」
そうつぶやくと、そのまま目を閉じて忙しい人生の幕を閉じたのでした。

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