2014年10月アーカイブ

10/26「本が結んだ二つの人生」

明治維新の激動のときに、北海道では函館戦争が繰り広げられましたが、このとき、ひと組の本が人と人を結び、人生を、歴史を変える大きな役割を果たしました。

戦いの終盤、明治新政府軍の参謀であった薩摩藩の黒田清隆は、五稜郭で旧幕府軍を指揮する榎本武揚に降伏を勧める使者を送りますが、榎本は玉砕の覚悟を伝えると「万国海律全書」2巻が戦火で失われることを惜しみ新政府軍に送り届けるのです。
それは榎本がオランダ留学から持ち帰った本で、海上の国際法を論じた日本の近代化に欠かせぬ貴重なものでした。

黒田は深く感銘を受け、新政府軍は本の返礼として酒五樽を贈り、さらに最後まで存分に戦えるようにと武器弾薬まで送ろうとしたのです。
本が結んだこの出会いが、榎本に降伏を決意させ、函館戦争を終結に導いたのでした。

この後、黒田は榎本死罪を求める声の中、坊主頭に剃髪してまで助命嘆願に奔走し、榎本を明治政府の官吏に登用して活躍の道を拓くと、榎本はやがて総理大臣となった黒田を支えて大臣を歴任。
さらに黒田の娘が榎本の長男に嫁ぎ、黒田が亡くなった際には、並いる薩摩藩出身の政府高官ではなく榎本が葬儀委員長を務めたのです。

二人の生涯の結び目となった本は、宮内庁が所蔵して今日に伝えています。

10/19「二流のラヴェル」

1920年代から30年代にかけて活躍したアメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィン。
彼は500曲以上のポピュラーソングを送り出し、その多くがスタンダードナンバーとして親しまれていますが、ミュージカルや映画音楽、オペラも手がけ、20世紀アメリカ音楽の父と称されています。

その才能を代表する作品のひとつが、1924年に作られた『ラプソディー・イン・ブルー』。
これはジャズやブルース、ラグタイムといった大衆音楽とクラシック音楽を融合した壮大なシンフォニーです。
この作品の成功でガーシュウィンはクラシックの作曲家としても認められたのです。
ただ、彼自身はこれまでクラシック音楽の教育をきちんと受けたことがなかったので、自分の音楽の幅をもっと広げるために管弦楽の作曲法を誰かに教わりたいと思いました。

ちょうどその頃、公演旅行でアメリカに訪れていたのが、「管弦楽の魔術師」といわれる大作曲家ラヴェル。
ガーシュウィンはそのラヴェルに会いに行き、真剣な面持ちで「あなたに弟子入りして作曲法を学びたい」と申し出ます。
ところがラヴェルはこれをきっぱり拒否。その理由は次の言葉です。

「キミは既に一流のガーシュウィンなのだから、いまさら二流のラヴェルになる必要はありませんよ」。

10/12「時間を売る貴婦人」

1884年10月13日、ロンドン郊外のグリニッジ天文台を通る子午線を経度0とし、ここでの時刻を世界標準時とすることが決定。
この日、初めて世界中の時間が統一されたのです。

グリニッジ天文台の屋上には柱に貫かれた大きな赤い玉があります。
それは昔、天文台で計測した正確な時間を毎日1回知らせていた装置。
12時55分になると滑車を使って玉を柱の上まで引上げ、午後1時ちょうどにストンと柱の下に落とすことで時刻を伝える仕組みなのです。
しかし、これでは天文台が見える場所でしか時刻を知ることができません。
そこで天文台で助手をしていたベルヴィルが、時間を売るという商売を思いつきました。

彼は毎週月曜日に天文台で自分の時計を正確に合わせてロンドンの街に出向き、鉄道関係や時計職人、資産家などを訪ね歩いては正確な時刻を教えるというものです。
彼の死後、この仕事は妻のマリアから娘のルースへと引き継がれていきました。
週に一度ロンドンの家々を訪ね歩き、恭しく銀の懐中時計を取り出して時刻を教えるルースの姿は、ロンドンの人たちの間で「グリニッジ時間の貴婦人」と呼ばれ、親しまれました。

1930年代までこの仕事を続けていたルース。
やがてラジオ局が開業して時報を放送する時代になったにも関わらず、週に一度のルースの訪問を心待ちにする顧客が50軒ほどあったそうです。

10/5「茶席で仲直り」

1929年、オランダのハーグで第一次世界大戦後のドイツに対する賠償会議が開かれました。
フランスとイギリスの意見が激しく対立し、あわや戦争にまでなりかけたとき、困り果てた両国から調停の依頼を受けたのが、日本代表の外交官・安達峰一郎です。
彼は卓越した語学力と高い人望で各国の代表から尊敬されていました。
調停役となった安達は日本流の茶席に両国の代表を招き、穏やかな口調で説得して両国を和解。会議を成功に導いたのです。

安達はその後、国際司法裁判所の裁判官・所長を務め、欧州中心だった当時の国際社会で、国の力に左右されない法に基づく正義を貫き通し、「世界の良心」と称えられました。

そんな偉大な人物ですが、若い頃の安達には劣等感がありました。
それは言葉。東京での大学生活で自分のお国訛りを恥じていたのです。
その悩みを学友に相談したところ、「落語でも聞いて江戸言葉を覚えればよい」とアドバイスを受けます。
そこで安達は毎日のように寄席に通っては、落語中興の祖とされる三遊亭円朝の噺を熱心に聴いて、それを憶えることで劣等感を克服したといわれます。

ハーグの国際会議で茶席に招いてフランスとイギリスを仲直りさせたのも、寄席から学んだ人を惹き付ける話術による賜物だったのかもしれません。

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