2014年6月アーカイブ

6/29「ジャガイモの花」

ちょうどこの時季、北海道の広大なジャガイモ畑は美しい花の季節を迎えます。
かつてこの花を愛したことで知られるのがマリー・アントワネットですが、実は庶民にジャガイモを食べさせるための王妃のキャンペーンであったといわれます。

当時のフランスは飢饉が相次ぎ食糧不足に苦しんでいたにもかかわらず、庶民はジャガイモを「気味が悪い」と食べようとしなかったのです。
しかし、ジャガイモの食糧としての優秀さを知る薬剤師パルマンティエの進言を受け、ルイ16世と妻のマリー・アントワネットはジャガイモの普及に乗り出します。

華やかな宮廷のサロンで、ルイ16世はジャガイモの花をボタンホールに飾り、王妃は髪飾りにして、たちまち貴族の間に観賞用としてジャガイモの栽培を大流行させます。
さらにジャガイモを王立の菜園に植え厳重な警備をつけて「王の食べ物を盗んではならない」とお触れを出すと、夜は見張りを引き揚げさせたのです。
好奇心に駆られた人々にジャガイモを盗ませるためでした。
この作戦は大成功でジャガイモは庶民に普及したといわれます。

国民を飢餓から救おうとした王と王妃。
フランス革命に命を奪われても、二人の思いはジャガイモの花が今に語り継いでいます。

6/22「オシム氏の祖国愛」

熱戦続くサッカーワールドカップ。
日本は5大会連続の出場ですが、今大会で初出場を果たした国があります。

ボスニア・ヘルツェゴビナ。
1992年に旧ユーゴから独立したものの、民族対立から内乱が起きて20万人もの犠牲者を出しました。
現在のボスニアにはイスラム系、セルビア系、クロアチア系の3民族がいますが、その民族間の融和は進んでおらず、ボスニアのサッカー協会には3民族それぞれの会長が存在するという異常事態。
このことを問題視した国際サッカー連盟は、2011年にボスニアの加盟を取り消す処分を下したのです。

「このままではボスニアからサッカーが失われてしまう」
と、祖国のために立ち上がった男がいます。
それは、かつて日本代表の監督を務めたイビツァ・オシムさん。
彼の願いは、ボスニアがワールドカップに出ることで一つの国の3つの民族が融和すること。
脳梗塞の後遺症が残る不自由な体でボスニアに駆けつけ、3民族それぞれの協会や政治家を説得して回ったのです。

彼の熱意は人々の心を動かし、ボスニアのサッカー協会は一元化され、3民族混成の代表チームが実現。
連盟に再び復帰したボスニアが去年のヨーロッパ予選でブラジル大会出場を決めた試合会場のVIP席には、72歳になるオシムさんの姿がありました。
ボスニアが勝利した瞬間、彼はハンカチで目頭を押さえていたそうです。

6/15「阿蘇の道しるべ」

熊本の阿蘇・高森町は江戸時代から旅人の行き来が多く、栄えた村でした。
広い草原には村々を繋ぐ道がいくつも通っていましたが、夏は先が見えないほど背の高い草が茂り、冬は雪が積もって道が分からなくなります。
旅に慣れた人でも道に迷い、そのまま行き倒れてしまう人もいました。

そんな旅人をなんとか助けたいと思ったのは、この村で暮らす甲斐有雄(かいありお)という男。
生業は石材を切り出して加工する腕のよい石工職人です。
「そうだ、この石工の腕で道しるべを作ろう。雨が降ってもいつまでも残る石の道しるべをあちこちに立てれば、道に迷う人がなくなる」
そう決心した彼は、誰に頼まれたわけでもないのに仕事の合間を縫っては道しるべを作り、村の四つ角や迷いやすい分かれ道に立てていきました。

さらに、道しるべはこの村だけに留まらず、阿蘇から宮崎の高千穂、大分の直入まで広がっていき、奥深い山々の尾根や山頂にも立っていきます。
明治42年に80歳で亡くなるまでの48年間に、彼は1824基の道しるべを刻み続けたのです。

現在もあの地この地で立ち続ける甲斐有雄の道しるべには、行き先案内だけではなく自作の歌を刻んだものが多いのが特徴です。
それは、道を教えるだけではなく、疲れきった旅人の心を和ませ癒そうとする、彼の気遣いなのです。

6/8「魔法の鉄橋」

佐賀と瀬高を結ぶ国鉄佐賀線が開通したのは昭和10年。
この鉄道が筑後川の河口を渡るために造られた鉄橋が、「昇って開く」と書く昇開橋(しょうかいきょう)です。
有明海に注ぐ筑後川には大型の船が行き来するので、航路を妨げずに列車を渡らせる特殊な橋が必要でした。
橋の設計を担当したのは鉄道省の技官・坂本種芳(さかもとたねよし)。
彼のアイデアは、橋の中央部24mの橋桁を左右のタワーに沿って線路ごと垂直に持ち上げて船を通し、列車が来たらその橋桁を元の位置に下ろして通すという仕組みでした。

完成した昇開橋を見て地元の人々はびっくり。
レールで繋がっている筈の橋桁がぐんぐん空高く上がっていく様は、魔法でも見たような驚きだったのです。
2年後のパリ万博では、日本の科学技術を代表する作品として、この橋の模型を出品しています。

ところで、橋の設計者・坂本種芳には、鉄道省の技官の他にもう一つの顔がありました。それは手品や奇術をするマジシャンとしての顔。
アマチュアながらマジックで世界的な賞「スフィンクス賞」を受賞するほどの第一人者でした。
そう。彼が設計した昇開橋は、見る人々をあっと驚かすマジシャンの発想で思いついたものなのです。

佐賀線は後に廃線となりましたが、昇開橋は壊されることなく重要文化財となって、種も仕掛けもある坂本マジックを現在も披露しています。

6/1「ドイツさん」

『第九』・・・ベートーベンの交響曲第九番が日本で初めて演奏されたのは徳島県鳴門市です。
演奏したのは、なんとこの地に抑留されていたドイツ人捕虜たちでした。

大正時代、第一次世界大戦で日本は中国の青島に出兵してドイツ軍と戦い、約4700人のドイツ兵を捕虜として日本に護送。
その捕虜の内の約1000人が鳴門市に収容されていたのです。

ところがこの収容所では所長の方針で人権をとても尊重し、捕虜たちの自治的な収容所運営を認めていたので、彼らは自由で快適な暮らしをすることができました。
町の中へ外出もできるほどです。
地元住民も町で彼らに出会うと親しみを込めて「ドイツさん」と呼び、友だちづきあいする風潮が広がっていきました。

こうしてドイツ兵捕虜たちはスポーツや音楽、演劇などの文化活動をしたり、地域住民たちに向けて音楽教室を開いたり、パンやハム・ソーセージの作り方を教えるなどして交流を深めていきました。
そんな中、大正7年6月1日に本邦初公開されたのが、収容所内で結成された楽団と合唱団によるベートーベンの『第九』だったのです。

鳴門市では、きょう6月1日を「第九の日」と定め、毎年6月の第一日曜日に『第九』の演奏回を開催。
ドイツ人捕虜たちと町との友情の歴史を語り継いでいます。

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