2014年7月アーカイブ

7/27「美味しいお米作りの甲子園」

今年も夏の甲子園が近づいてきましたが、野球ではなく、米作りで闘う甲子園を目指して、田んぼで頑張っている高校生達がいることをご存知でしょうか?

全国の農業高校が実習田で育てた米を競い合う「お米甲子園」。
農業の後継者不足や若者の米離れが進む中、日本の米に誇りを持ち伝統を受け継いでもらおうと始まったもので、昨年、最高金賞を受賞したのが、飛騨高山高校山田校舎3年生の3人の男子高校生でした。

「まさか優勝できるなんて。勝因は丁寧にただひたすら基本通りの作業をしたこと」と語った3人。
実は実家に水田を持っている者はおらず、米作りを課題研究に選んだ1年生の頃は知識ゼロ。
米作りの苦労など何も知らなかったといいます。
そんな3人が米作りで学んだことは「無駄な作業は何ひとつない」ということ。

「新しい知識や貴重な経験を学ばせてくれた先生と学校に感謝したい」
という3人に、指導教諭は
「仕事といえば地味な肉体労働ばかりだったが、文句も言わずよく頑張って最後までついてきてくれた」
と、その努力を讃えました。

今年は11月に青森の田舎館村(いなかだてむら)で開催されるお米甲子園。
その日を目指して、各地の高校生達が今日も美味しい米作りに懸命に取り組んでいます。

7/20「星になった一貫斎」

江戸時代、いまの滋賀県、近江の国友村(くにともむら)に、国友一貫斎(くにともいっかんさい)という鉄砲鍛冶職人がいました。
彼は本業でも優れた職人でしたが、もうひとつの名声があります。
それは、日本で初めてグレゴリー式反射望遠鏡を作った人。

その当時、屈折式望遠鏡は日本でも竹や和紙を筒にしたものが作られていましたが、一貫斎は鉄砲鍛冶の技術を活かし、ほぼ現代のものと変わらない金属と鏡とガラスレンズから成る高性能な反射望遠鏡を自力で作り上げたのです。

とくに驚かされるのが、鏡。
現存する望遠鏡を調べると、200年近く経った今でも鏡に曇りはなく、これは現代の技術でもかなり難しいことです。
さらに、彼は望遠鏡を使って天体観測を開始。
月や惑星のスケッチが残されていますが、当時世界的にもほとんど例がなかった太陽黒点の長期連続観測も行っています。

しかし、一貫斎の天体観測は突如終わりを迎えます。
それは国友村を襲った飢饉。
村の総代だった一貫斎は望遠鏡をすべて各地の大名に売却し、それで米を得て村を救ったのです。
天体観測を断念したことはさぞ悔しかったでしょうが、彼は自作の望遠鏡が村の役に立ったことを神仏に感謝したといいます。

平成3年、滋賀県の天文台が火星と木星にひとつの小惑星を発見。世界で6100番目に発見されたこの星は「6100 Kunitomoikkansai」と命名されました。

7/13「ボッカさん」

夏がくれば思い出す、遥かな尾瀬。
貴重な高山植物などの生息地である尾瀬国立公園は特別保護地区で、車が乗り入れることはできません。
その広い尾瀬の中に山小屋が8軒。
そこで供される飲食物や生活用品は誰がどうやって運んでくるのでしょう。
それはボッカさんです。

「歩く」という字と荷物の「荷」と書いて「ボッカ」。
歩荷さんは梯子のような背負子に自分の背の高さ以上の荷物を積み上げ、それを背負って歩きます。
重さにして70kg。多い時には100kgにもなり、麓の村から峠を越えて尾瀬の山小屋まで一日2往復しています。
尾瀬には現在10名ほどの歩荷さんが働いており、彼らがハイカーたちの山小屋での快適なひとときを裏で支えているのです。

尾瀬を歩くハイカーが歩荷さんに出会って気軽に声をかけても、挨拶を返してくれないことがあります。
それは悪気があるわけではなく、すれ違うハイカーたちにいちいち挨拶を交わすと集中力が乱れ、足元がおぼつかなくなるからです。
そこで、尾瀬では荷物を運んでいる歩荷さんに出会っても無闇に声をかけないことが、暗黙のマナーになっています。

重い荷物を積み上げて背負い、額から汗を流しながら、神経を研ぎすまし、黙々と、ゆっくり、一歩一歩着実に歩き続ける歩荷さん。
彼らこそ、尾瀬の守り神なのです。

7/6「飛び入りで五輪代表」

1912年のきょう―7月6日、ストックホルムで第5回オリンピックの開会式が行われました。
これは日本が初参加した記念すべき五輪です。
日本初の代表選手はわずか2名。
一人は後に「マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなぐりしそう)で、もう一人は陸上短距離に出場した三島弥彦(みしまやひこ)です。

東大の学生だった三島はスポーツ万能。
また学生ながら大学野球の審判も務めていました。
そんな彼にオリンピック選考会の審判をしてほしいという要請が来たのです。 陸上競技の審判は畑違いなので断りましたが、オリンピックなるものに興味をもった彼は選考会を見に行きます。
しばらくは観客席で見学していたのですが、競技を見ているうちに血が騒ぎ出し、力試しのつもりでついに飛び入り参加。
その結果、なんと100m走、200m走、800m走で優勝してしまったのです。

思いがけず日本代表に選ばれた三島ですが、オリンピックをまだよく理解していなかった彼は「駆けっこ如きで外国にまで出かけてよいものか」と迷います。 一般の人が外国旅行するなど想像もできない明治の日本で、彼の迷いは当然といえば当然でした。

そんな三島にオリンピックの意義を説いて「卒業試験を一年延期するから行ってこい」と諭したのが、東大総長。
かくて三島弥彦は意気揚々、シベリア鉄道に乗って遥かなるストックホルムを目指したのです。

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