7/6「飛び入りで五輪代表」
1912年のきょう―7月6日、ストックホルムで第5回オリンピックの開会式が行われました。
これは日本が初参加した記念すべき五輪です。
日本初の代表選手はわずか2名。
一人は後に「マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなぐりしそう)で、もう一人は陸上短距離に出場した三島弥彦(みしまやひこ)です。
東大の学生だった三島はスポーツ万能。
また学生ながら大学野球の審判も務めていました。
そんな彼にオリンピック選考会の審判をしてほしいという要請が来たのです。 陸上競技の審判は畑違いなので断りましたが、オリンピックなるものに興味をもった彼は選考会を見に行きます。
しばらくは観客席で見学していたのですが、競技を見ているうちに血が騒ぎ出し、力試しのつもりでついに飛び入り参加。
その結果、なんと100m走、200m走、800m走で優勝してしまったのです。
思いがけず日本代表に選ばれた三島ですが、オリンピックをまだよく理解していなかった彼は「駆けっこ如きで外国にまで出かけてよいものか」と迷います。 一般の人が外国旅行するなど想像もできない明治の日本で、彼の迷いは当然といえば当然でした。
そんな三島にオリンピックの意義を説いて「卒業試験を一年延期するから行ってこい」と諭したのが、東大総長。
かくて三島弥彦は意気揚々、シベリア鉄道に乗って遥かなるストックホルムを目指したのです。
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