2014年3月アーカイブ

3/30「花の星座さくら道」

かつて名古屋と金沢を結んで260?余りを走行していたバス路線がありました。
旧国鉄バス名金線(めいきんせん)で、バス停の数が150を超えるという当時日本一の長距離路線でした。
その沿道を桜で彩りたいと願ったのがバスの車掌だった佐藤良二(さとう・りょうじ)さんです。

実は沿道には、御母衣(みぼろ)ダム建設の際に水没した村から桜の老木が移植され、見事な生命力で花を咲かせていました。
その姿に感銘を受けた佐藤さんは「太平洋と日本海を桜でつなごう」と思い立つのです。
以来、仕事のかたわら自費でコツコツと桜の木を植え続けた佐藤さん。
やがて応援する仲間も加わって12年の歳月が流れ、名古屋から金沢まで植えられた桜は2,000本に上るといわれます。
しかし佐藤さんは病に倒れ昭和52年、47歳の若さで亡くなるのです。

第1号の桜が植えられた現在のJR東海バス名古屋支店にある記念碑には佐藤さんの生前の言葉が刻まれています。
「この地球の上に、天の川のような美しい花の星座をつくりたい。
花を見る心がひとつになって、人々が仲良く暮らせるように」。

佐藤さんの花の星座は「さくら道(みち)」と呼ばれ、その志を継いで始められた、名古屋城から兼六園まで桜を楽しみながら駆け抜ける「さくら道国際ネイチャーラン」が今年も4月に開催されます。

3/23「源平の和睦」

山口県下関市で壇の浦の合戦があったのは、平安末期の元暦2年3月24日。
この戦いで平家一門は滅びましたが、その残党が源氏の追っ手から逃れて各地へ隠れ住んだといわれています。

栃木県奥日光の山々を分け入った温泉・湯西川もその隠れ里のひとつ。
この村では伝統的に鯉のぼりを揚げません。
源氏の追っ手に見つからないようにという名残りです。
そうやって密やかに慎ましく暮らしていましたが、昭和後期から湯西川が平家落人の温泉として注目され、大勢の観光客が訪れ、ホテルや旅館が建ち並ぶようになりました。
隠れるように暮らす時代から人を呼び込む時代へと変わったのです。

そこで平成6年に催されたのが、源氏と平氏の和睦。
鎌倉の源氏ゆかりの末裔の人たちを湯西川へ招き、わだかまりを捨てて親睦しようという試みです。

ホテルでの歓迎会で源平それぞれの末裔が初めて対面しましたが、歴史の重みのせいか、最初は緊迫感が漂っていました。
でも宴席を共にするうち次第に和んでいき、酒を酌み交わしながら笑顔で源平の歴史を語り合い、心がひとつになっていきました。
翌日は皆で平家の白旗、源氏の赤旗を掲げながら温泉街をパレードし、式典では双方の代表が和睦書に調印してがっちりと握手。

源平800余年にわたる恩讎は温泉街の湯煙に消えていったのです。

3/16「ロシアに生きた幕末の日本人」

多くの感動を残してくれたソチ五輪でしたが、同じロシアを舞台に文化の懸け橋となった陰の歴史的人物がいます。
幕末、幕府の使節団がロシアを訪れたとき、その一行が驚いたのは、ロシア側のもてなしぶり。 食事は和食で、箸や茶碗も日本風。風呂には体を洗う糠袋があり、寝室には木の箱枕が用意されていたのです。
それまで日本は鎖国でロシアとの交流がないのに、なぜロシアは日本人の生活文化を知り尽くしているのか?
実は、このもてなしを裏で指揮していたのは、一人の日本人なのです。

橘耕斎・・・彼はもと静岡・掛川藩の武士でしたが、脱藩した後浪人暮らし。やがて異国への憧れを抱いた彼は、伊豆下田から黒船に密航して日本を脱出したのです。
ロシアに辿り着いた耕斎は、2年を費やして世界初となる日本語とロシア語の辞書『和露通言比考』を編纂。その功績からロシア政府に雇われ、通訳をしたり大学で日本語を教えたりしています。
その彼が使節団の前に姿を現さなかったのは、密航して日本を出たことを咎められることを恐れたからでした。

しかし明治になって岩倉具視の使節団がロシアを訪れた際には姿を現し、岩倉の勧めで20年ぶりに日本へ帰国。
日露交渉を陰で支えた耕斎は明治政府に登用されるべき貴重な人材ですが、彼自身はかつて密航して日本を捨てた罪の意識が拭えず、ひっそりと余生を送りました。

橘耕斎が唯一残した辞書『和露通言比考』は、全国に20部余りが現残しています。

3/9「世界初の海底道路」

昭和33年のきょう3月9日、関門海峡に世界初の海底道路、関門国道トンネルが開通しました。
トンネルの建設工事着工は昭和12年。
しかし、同じ規模の関門鉄道トンネルが6年間で開通したのに、国道トンネルが開通したのは21年後の昭和33年です。

長丁場となった最も大きな理由は、戦争の影響。
資金も資材も労働力も極度の制限を受け、さらに米軍の空襲で工事施設が破壊されました。
そして終戦。物不足のため、トンネルの現状維持が精一杯です。
そこに最大の危機、GHQのマッカーサー長官から「関門国道トンネルは不経済だから工事を中止して水没させる」という方針が出されたのです。
そうなったらこれまで掘り進めてきた人たちの苦労が、それこそ水の泡。

建設労働者たちが立ち上がりました。
仕事の傍らトラックで町々に繰り出して、工事続行への援助を声のあらん限りに呼びかけ、夕方からは映画館に行き、休憩時間を借りて馴れないマイクの前で工事の応援をお願いしたのです。
トンネルを守ろうという彼らの意気込みは地域住民の共感を呼び、27万人の署名を集めました。
これを受けて中止は撤回され、工事が再開されたのです。

21年間にわたる執念を燃やして開通した関門国道トンネルは、いまも本州と九州を繋ぐ大動脈となっています。

3/2「秋の雛祭り」

明日は桃の節句。
全国で雛祭りが催されますが、例外もあります。

香川県三豊市の瀬戸内海に面した仁尾町。
古くから港町として栄え、格式ある商家や蔵の町並みがいまも残って往時を偲ばせていますが、この町ではもう何百年も昔から3月3日に雛祭りを行いません。

戦国時代、この地を治めていたのは細川頼弘という領主。
戦国の世とはいえ、仁尾町は戦を好まない細川公に平穏に治められていたらしく、領民たちも細川公をよく慕っていたそうです。
ところが天正7年2月、四国全土の征服を目論む土佐の長宗我部元親が攻め込んできます。
城下の町は踏み荒らされ、城は炎上。
細川公以下一族郎党ことごとく討ち死にして果てました。
それが3月3日のこと。
以来、仁尾の人たちは3月3日を細川公の死を悼む慰霊の日とし、雛祭りをしなくなりました。
仁尾町の人たちは400年以上も昔の歴史を、自分たちの身近に起こった悲劇として、いまも親から子、子から孫へと伝えているのです。

ちなみに、仁尾町では男の子の節句と女の子の節句を「八朔人形まつり」として9月上旬に開催。
別名「秋の雛祭り」とも呼ばれ、大勢の観光客で賑わっています。

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