3/16「ロシアに生きた幕末の日本人」
多くの感動を残してくれたソチ五輪でしたが、同じロシアを舞台に文化の懸け橋となった陰の歴史的人物がいます。
幕末、幕府の使節団がロシアを訪れたとき、その一行が驚いたのは、ロシア側のもてなしぶり。 食事は和食で、箸や茶碗も日本風。風呂には体を洗う糠袋があり、寝室には木の箱枕が用意されていたのです。
それまで日本は鎖国でロシアとの交流がないのに、なぜロシアは日本人の生活文化を知り尽くしているのか?
実は、このもてなしを裏で指揮していたのは、一人の日本人なのです。
橘耕斎・・・彼はもと静岡・掛川藩の武士でしたが、脱藩した後浪人暮らし。やがて異国への憧れを抱いた彼は、伊豆下田から黒船に密航して日本を脱出したのです。
ロシアに辿り着いた耕斎は、2年を費やして世界初となる日本語とロシア語の辞書『和露通言比考』を編纂。その功績からロシア政府に雇われ、通訳をしたり大学で日本語を教えたりしています。
その彼が使節団の前に姿を現さなかったのは、密航して日本を出たことを咎められることを恐れたからでした。
しかし明治になって岩倉具視の使節団がロシアを訪れた際には姿を現し、岩倉の勧めで20年ぶりに日本へ帰国。
日露交渉を陰で支えた耕斎は明治政府に登用されるべき貴重な人材ですが、彼自身はかつて密航して日本を捨てた罪の意識が拭えず、ひっそりと余生を送りました。
橘耕斎が唯一残した辞書『和露通言比考』は、全国に20部余りが現残しています。
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