2013年9月アーカイブ

9/29「震災いちょう」

東日本大震災の「奇跡の一本松」は多くの人々に希望と感動を与えましたが、90年前の大正12年9月におきた関東大震災でも一本の木が希望の灯を灯しました。

甚大な被害をもたらした関東大震災で猛火に包まれた東京は三日間燃え続けて、7万人に及ぶ死者の多くが火災によって亡くなったといわれます。
都心は一面焼け野が原となりますが、現在の千代田区の一ツ橋の辺りで、なんと一本の銀杏の木が奇跡的に生き残っていたのです。
その姿は失意のどん底にいた人々に生きる希望と勇気を与えました。

ところが、その後の復興事業で切り倒されることになるのです。
それを知って「なんとか後世に残したい」と復興局の長官に訴えたのが、気象庁の前身にあたる中央気象台の台長、岡田武松(おかだ・たけまつ)氏でした。
そのお蔭で銀杏は保存が決まります。

若き日に「気象による災害を防ぎたい」と気象学者を志した岡田氏は、今日の天気予報の礎を築くなど「日本近代気象学の父」と称されますが、その訴えは「災害を風化させてはならない」というメッセージだったのではないでしょうか。

皇居・大手門のお濠端に植え替えられた銀杏は「震災いちょう」と呼ばれて都民に親しまれ、東京の銀杏の色づきを見る標本木として、今年も気象庁が観察を続けています。

9/22「愛馬精神」

1932年のロサンゼルスオリンピック。
この大会に出場した日本人で、金メダルを前に競技を途中棄権した選手がいます。
それは馬術の耐久レース・決勝戦に出場した城戸俊三(きどしゅんぞう)選手。

馬術の耐久レースは、馬を駆って山野を32km走り、コース途中に設置された50の障害を飛越しながら全力疾走するというハードな競技です。
愛馬に乗ってスタートした城戸選手は後続を大きく引き離してトップ。
途中で失速することもなく、最後の障害を残すのみとなりました。
ところが、ここで信じられないことが起こります。
障害の直前で城戸選手は馬を停めて下りてしまったのです。

栄光を目前にしながらの棄権。
実はこの時、馬の全身から汗が吹き出し、鼻孔が開き切って、息も絶え絶えに気力だけで走っていました。
もしこのまま最後の障害をジャンプしたら、ゴール後に馬が死んでしまうだろうことが、城戸選手には分かっていたのです。

日本代表としての責任と、愛馬の命、どちらを取るか・・・
彼は迷うことなく後者を選んだのです。

その後、ゴールまで馬と一緒に歩きながらたてがみを叩いて馬を労う城戸選手と、まるで泣いているように彼の肩に鼻を埋める馬の姿を見て、観客たちもその事情を察し、感動の拍手を送ったそうです。

9/15「『敬老の日』発祥の村」

敬老の日の始まりとされる村があります。
戦後間もない昭和22年。兵庫県の小さな旧野間谷村(のまたにむら)です。

社会福祉という言葉さえなかった戦後の貧しい時代。
35歳の若さで村長を務めていた門脇政夫さんは、戦後の復興は村人たちの心の復興からだと考えました。
村人の心を一つにするために、皆で集える機会を作りたいと提案。
それが、村主催の「敬老会」だったのです。

農閑期である9月15日、村中のオート三輪をかき集めてお年寄りたちを送迎し、小学校の講堂で祝賀会を開催。
小学校の講堂に集め、祝賀会を開催。その挨拶で門脇さんは「戦争中に村を守ってきたのはあなた方お年寄り。わが村の大事な宝です。
ぜひ若輩の村長にあなた方の知恵を分けて下さい」
と語りかけています。
その翌年、国民の祝日に関する法律が施行されますが、こどもの日や成人の日があるのに敬老の日はありません。
門脇さんは近隣の市町村に粘り強く働きかけて、敬老会の開催を広げていきました。

敬老の日が国民の祝日になったのは昭和41年。
旧野間谷村で第一回敬老会が催された19年後のことです。

現在、敬老の日は9月の第三月曜日になっていますが、敬老の日発祥の旧野間谷村の流れをくむ兵庫県多可町(たかちょう)では、いまも伝統に則って9月15日に敬老会を催しています。

9/8「母と子の読書」

『マヤの一生』『モモちゃんとあかね』などで知られる児童文学・動物文学者の椋鳩十(むく はとじゅう)。
彼は作家の他にもうひとつの顔を持っていました。
それは図書館の館長。
昭和22年から昭和41年までの19年間、鹿児島県立図書館の館長を務めたのです。

その間、彼は読書文化を広げるさまざまな活動に取り組みました。
その一つが「母と子の20分間読書運動」。
これは教科書以外の本を子どもが20分ほど読むのを、母が傍らに座って静かに聞く。たったこれだけのことです。

「そんなことをして何になるのだ」という声もありました。
実際、その当時は子どもの読書は教科書だけでよいという風潮で、全国的に子ども向けの本を置いた公共図書館はほとんどなかったのです。
しかし椋鳩十は、
「戦後の食糧難と激しいインフレで、皆その日を暮らすことで精一杯。
だからこそ読書を通じて、わずかな時間でも親子が言葉と心を通わせるかけがいのないひとときを味わってもらいたい」
と、鹿児島の行政や学校などに働きかけました。

この読書運動は、その後「親子20分読書運動」へと発展し、鹿児島県のみならず全国へ広がっていきました。
そして現在。
全国どこの図書館にも子ども向けの本が揃えられています。

9/1「塩むすびの味」

90年前のきょう、大正12年9月1日、関東大震災が起きました。
関東一円を襲った巨大な地震は、13万人を越える未曾有の犠牲者を出し、地震に伴う火災で東京や横浜の大半が廃墟となりました。
幸い命を取り留めても、家を失った被災者はおよそ150万人。
震災後、各地に救護所が設けられ、そこで炊き出しをして被災者たちに配られたのは、おむすび です。

日本では緊急の際に手早く用意できるおむすびを昔から重宝してきました。
塩で握っただけのおむすび。
それでも命からがら着の身着のままで避難してきた人にとって、この塩むすびは忘れられない格別の味だったのです。

たまたま東京に滞在していて被災した一人のアメリカ人が途方に暮れて焼け跡に佇んでいると、やはり被災者らしい日本人が近づき、手にした一片のパンを差し出すのです。
その人がやっとありついた食べ物をもらうわけにはいかない、と固辞すると、その日本人はこう言いました。
「自分は救護所に行けばおむすびが手に入る。でも外国人のあなたには口に合わないだろうから、このパンをどうぞ」

そのアメリカ人は日本人の親切に感激しながらも、そのおむすびなるものの味を知りたいと思ったそうです。

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