2013年8月アーカイブ

8/25「励ましのフライト」

昭和33年、宮城県の国立玉浦(たまうら)療養所の通称「玉浦ベッドスクール」に一羽の伝書鳩が迷い込みました。
そこは病気療養中の子供達が学んでいた学校で、伝書鳩の飼い主が東京(在住)だと分かると、子供達は弱ってしまった鳩を帰してやりたいと近くの仙台空港に相談します。
それを、仙台・東京間の定期航路の機長、麻田さんが快く引き受け、鳩は無事に届けられました。
これがきっかけで、子供達との交流が始まった麻田機長は、病気と闘う姿が心から離れず「いつか飛行機に乗せてあげたい」と考えるようになります。

しかし、それは簡単なことではありませんでした。
航空会社には、採算や安全の問題など様々なハードルがあったのです。
麻田機長は根気強く会社の説得を続け、ついに5年後の昭和38年、航空会社から学校へ招待状が届くと、子供達が待ち受ける仙台空港に、麻田機長が操縦する30人乗りの旅客機ダグラスDC-3が到着。
初めての飛行機に大喜びする子供達を乗せて、仙台上空を遊覧飛行したのです。

まだまだ飛行機に気軽に乗れなかった時代に、大空を飛ぶひとときは、日々病室のベッドで過ごす子供達への何よりの励ましでした。

その後、麻田機長は若くして亡くなりますが、没後40年近い歳月を経た平成18年、航空会社社員の有志がボランティアで同じように子供達を乗せメモリアルフライトを実現。
麻田機長の温かな思いは時を超えて受け継がれているのです。

8/18「富士山測候所の父と母」

世界遺産となった富士山。その頂上に83日間籠った人がいます。
野中到(のなかいたる)。
日本で一番高い富士山頂の気温や風を調べれば、天気予報が進歩すると考えた彼は、自ら山頂に小屋を建築。
完成したのは明治28年8月30日のことです。
それから観測の機械や食料を運びこんで準備を整えた後、10月1日から小屋に一人泊まり込んで、毎日2時間ごとに気象観測を行いました。
しかし、これは無謀な試み。一人ではろくに眠ることもできません。

ところが2週間後、思いがけない助っ人が現れます。
それは野中到の妻・千代子。
夫のことが心配で一人富士山を登ってきたのです。
その日から夫婦助け合いながらの気象観測が続きました。

しかし、標高3776mの富士山頂。冬になると、寒さと高山病、そして栄養失調で、二人は歩くこともままならない体になっていきました。
そんな二人が救出されたのは12月22日。
鏡を使って太陽光を麓に反射することで無事を伝えていたのですが、それが途絶えたことから救援隊が向ったのです。
こうして、83日に及ぶ富士山頂の越冬は幕を閉じました。

37年後、気象台の正式な測候所が富士山頂に完成します。
8月30日は「富士山測候所記念日」ですが、これはその測候所ではなく、あの野中の手作りの小屋が完成した日。
明治時代に命がけで気象観測を試みた野中到と千代子の夫婦に敬意を表しての記念日なのです。

8/11「昭和17年の球児たち」

今年、第95回を迎えた夏の高校野球。
その歴史は大正時代から続く伝統ある大会ですが、昭和16年から昭和20年までの5年間は中止されました。
それは戦争のためです。

ところが、昭和17年の夏、全国から地方予選を勝ち抜いた16校の球児たちが甲子園球場で一週間の熱戦を繰り広げています。
これは時の政府が主催者となって、国民の戦意高揚を目的に開催した体育大会の一環として行われたものでした。

主催が新聞社ではなく国で、伝統の優勝旗も何もない大会。
そのため夏の高校野球の歴史として認められず、「幻の甲子園」と呼ばれています。
それでも、全力で白球を追い、試合に勝っては抱き合って喜び、負けてはうずくまって泣いた全国代表16校のナインたち。
そして、そんな彼らを応援した超満員のスタンドの観客たち。
彼らにとって甲子園は決して幻ではなかったはずです。

この大会が終わると、多くの球児たちは志願して予科練や海兵団に入り、やがて死を覚悟して戦地へ向かいました。

いま、夏の大会では8月15日の正午に、試合を中断して甲子園にいる全員で1分間の黙祷を捧げています。
それは「幻の甲子園」と呼ばれる、あの昭和17年の球児たちにも向けられているのです。

8/4「昭和20年8月6日生まれ」

東京オリンピックが開かれたのは昭和39年。
世界93カ国の選手団が集って国立競技場で始まった開会式のクライマックスは、聖火の点灯です。

ギリシャのオリンピアで灯された聖火が日本に運ばれ、10万人以上のランナーたちにリレーされて、東京に着きました。
その最終ランナーがトーチを手に高く掲げて国立競技場に姿を現し、聖火台への階段を軽やかに走り上っていきます。
聖火の最終ランナーは19歳の大学生・坂井義則さん。
彼は陸上の選手で、オリンピックの代表候補と目されていましたが、最終的には落選していました。

そんな彼が聖火の最終ランナーに選ばれたのには、二つの理由があります。
ひとつは、走りのフォームが際立って美しいこと。
そしてもうひとつの理由は彼の生年月日です。
坂井さんは広島県出身で昭和20年8月6日生まれ。
広島に原爆が落とされた、その日に生まれた青年だったのです。

東京オリンピックは、戦争の悲劇から平和国家として復興した日本を世界に示す大会。そして核兵器のない世界平和をスポーツを通じて訴えるというテーマを掲げていました。

その願いを一身に背負って、坂井さんは、世界が見つめる中、最終ランナーとして聖火台に火を灯したのです。

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