「秋深き 隣は何をする人ぞ」
晩秋、隣から伝わる人の気配に想いを寄せる、寂しさと温もりに満ちた松尾芭蕉の句です。
30代のときに、芭蕉は江戸の俳句の中心であった日本橋に居を構えますが、金や名声への欲望が渦巻き、弟子の数を競い合う姿に失望して、深川に移り庵を結びます。
当時、日本橋を去ることは俳人としての「敗北」を意味していたといわれますが、芭蕉の弟子達は大いに喜び、皆で力を合わせて師の清貧の生活を支えました。
実はこの時に、弟子から贈られたひと株の芭蕉の木が庭で見事に茂ったことから、庵は「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、また号も松尾桃青(まつお・とうせい)から芭蕉と名乗るようになったといわれます。
ところが、江戸の大火で芭蕉庵が全焼するという不運に見舞われるのです。
すると多くの弟子や友人がお金を出し合って芭蕉庵を再建。
芭蕉の木も再び植えられました。
弟子達に支えられ慕われた芭蕉。
その最後も弟子達を訪ねた旅先のことでした。
そこで重い病に倒れ、9月29日に催される句会に出席できないため、書き送ったのが「秋深き・・・」の一句だったのです。
「隣は何をする人ぞ」、温もりのある言葉を残し、芭蕉はそれから間もなく弟子達に看取られて亡くなりました。
「奥の細道」が刊行されたのは芭蕉の死後のことで、世界に知られる紀行文は、その死を惜しむ人々の深い思いを共に伝えています。