2012年9月アーカイブ

9/30「秋深き 隣は何をする人ぞ」

「秋深き 隣は何をする人ぞ」
晩秋、隣から伝わる人の気配に想いを寄せる、寂しさと温もりに満ちた松尾芭蕉の句です。

30代のときに、芭蕉は江戸の俳句の中心であった日本橋に居を構えますが、金や名声への欲望が渦巻き、弟子の数を競い合う姿に失望して、深川に移り庵を結びます。
当時、日本橋を去ることは俳人としての「敗北」を意味していたといわれますが、芭蕉の弟子達は大いに喜び、皆で力を合わせて師の清貧の生活を支えました。
実はこの時に、弟子から贈られたひと株の芭蕉の木が庭で見事に茂ったことから、庵は「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、また号も松尾桃青(まつお・とうせい)から芭蕉と名乗るようになったといわれます。

ところが、江戸の大火で芭蕉庵が全焼するという不運に見舞われるのです。
すると多くの弟子や友人がお金を出し合って芭蕉庵を再建。
芭蕉の木も再び植えられました。
弟子達に支えられ慕われた芭蕉。
その最後も弟子達を訪ねた旅先のことでした。
そこで重い病に倒れ、9月29日に催される句会に出席できないため、書き送ったのが「秋深き・・・」の一句だったのです。

「隣は何をする人ぞ」、温もりのある言葉を残し、芭蕉はそれから間もなく弟子達に看取られて亡くなりました。
「奥の細道」が刊行されたのは芭蕉の死後のことで、世界に知られる紀行文は、その死を惜しむ人々の深い思いを共に伝えています。

9/23「象の病院」

東南アジアのタイ・チェンマイでのこと。
9歳の少女が父親の運転するクルマで町を走っていました。
交差点で、1頭の象が横たわっている姿がクルマの窓から見えました。
そのそばには壊れたトラック。象が人間と共存しているタイでは、しばしば町を歩く象がクルマと衝突事故を起こすことがあります。

トラックにひかれて横たわった象は苦しそうですが、周りの人は何の手当もしません。
それどころか、駆けつけた警官が象の急所に向けて銃を撃ったのです。
その光景を間近に見てびっくりした少女は父親に尋ねます。
「ねえ、お父さん。どうして怪我をした象さんを、私みたいに病院に連れていかないの?」
少女は幼い頃、多発性硬化症という難病にかかり、病院に通う日々が続いていました。
この少女の問いに父親が答えます。
「象はね、体が大きいから運ぶことができないんだよ。象を治療する病院だってありゃしない。だから、ああやって安楽死させるんだよ」
それを聞いた少女の心には、怒りにも似た悲しみが募るばかりでした。

それから時は流れて2007年。ミャンマーとの国境近くの森で地雷を踏んで左前足を吹き飛ばされた象に、義足が着けられました。
象の義足は世界初のことで、その象の治療に当たったのも、世界で初めてというチェンマイ郊外にある象の病院。
この病院の代表者は、多発性硬化症のために杖を使いながら歩くソライダ・サルワダさんという女性―あのときの9歳の少女だったのです。

9/16「左右自在の博士」

エドワード・モースといえば、明治の初めに来日し、汽車の窓から大森貝塚を発見した人物として、よく知られています。

モース博士の専門は動物学で東京大学の教授に就任しましたが、彼はその専門分野に留まらず、日本人講師と協力しながらさまざまな活動をして、日本の学術・教育の発展に尽くしています。
また、こよなく日本を愛したモース博士は、日本の生活や芸能文化にも興味津々。見るだけではなく何ごとも体験するのが好きでした。

彼が日本の伝統芸能である能を鑑賞したときも、観るだけでは飽き足らず、謡曲を謡ってみたいと考え、名人に稽古をつけてもらうことになりました。
外国人の謡曲など前代未聞で、大勢の見物人が集まりました。
謡曲の稽古は、先生がお手本として謡い、それを生徒が歌詞を読みながら繰り返すものですが、モース博士は日本語の文字が読めません。
いったいどうやって稽古するつもりなのか―皆が固唾を呑んで見守る中、名人が謡い出します。
すると、モース博士はそれを聞きながら、右手でその音声をローマ字にして書き留め、同時に左手で五線譜に、声の音程や抑揚を音符にして記していきました。
じつは、彼は左右の手で別々のことができる能力をもっていたのです。

そして、書き上げたローマ字と五線譜を見ながら幾度か名人の手本に合わせて稽古。そのうちに独りで正確に謡えるようになったのです。
モース博士の両手使いの技と謡曲の謡いっぷりを間近に見た皆は、割れんばかりの拍手喝采。
明治日本のお雇い外国人の中で、エドワード・モースは最も日本人に人気があった一人でした。

9/9「静寂の喝采」

今から187年前―1825年の今日:9月9日は、ベートーベンが生涯最後の公演をした日だとされています。

公演―つまり、自分がステージに立って観客に音楽を聴かせることは、ベートーベンにとって特別な意味がありました。
なぜなら、彼は聴覚を失っていたにもかかわらず、自分が作った音楽を観客の前で演奏することにこだわった作曲家だからです。

若き日のベートーベンは作曲をすると、その初演には自らピアノを弾いていました。
耳が聞こえなくなると、口にくわえたタクトをピアノに接触させ、感じ取った振動を感じ分けながらピアノを弾いていました。
晩年になると、今度は指揮者として観客の前に立ちます。

ウィーンで交響曲第9番の初演が行われたのは1825年。
ステージでは54歳になる彼自身が指揮しましたが、じつはもう1人の指揮者が彼の後ろに立ち、オーケストラはそちらに合わせました。
演奏は楽章が進むたびに会場から拍手が沸き、アンコールの声が飛び交いますが、ベートーべンには何も聞こえません。
やがて最終楽章の「歓喜」の合唱が終わると、彼は振り向きもせずに指揮台に立ちすくんだまま。演奏は失敗したと感じているようです。
それを見かねたアルトの歌手が歩み寄り、巨匠の手をとって観客の方に振り向かせました。

目の前には観客の大喝采。でもそれは万雷の拍手ではありません。皆、ベートーべンの耳が悪いことを知っているので、手を振り、帽子を振り、ハンカチを 振って彼の偉業を讃えたのです。

9/2「宝くじ・感謝の連鎖」

台湾では、町の食堂や居酒屋によく宝くじ売りの人がやって来ては、テーブルを回ってくじを売ります。

ある食堂で若い男性たちが飲み食いしているテーブルに宝くじ売りのおばさんがやって来て、くじを勧めました。
男性の一人が、酒の勢いもあって、その場で当たり外れが分かるスピードくじを1000元分(約3000円分)買います。
でも、そう簡単に当たるはずもありません。
男性は苦笑いしながら、1000元分の外れくじをおばさんに渡しました。

ところが店を出たおばさんは、しばらくして、回収した外れくじの中に、500万元―日本円にして約1500万円が当たっているものを見つけました。
彼女はすぐに店に引き返し、さきほどの男性客のテーブルに行きました。
そして大金が当たっていたことを話したのです。
大喜びした男性はくじを換金した後日、その宝くじ売りのおばさんに40万元(約120万円)を渡しました。
それはもちろん、大金の当たりくじを自分のものにせずに正直に届けてくれたおばさんの誠実さに感謝してのお礼です。

そしておばさんは、もらったその40万元のうち10万元(約30万円)を、いつも宝くじを売らせてもらっているお礼にと、食堂に渡したのです。
さらに、この出来事を知った宝くじの発売元は、おばさんの正直な行いと感謝の心を表彰し、2万元(約6万円)の報奨金を彼女に贈ったそうです。

きょう9月2日は、宝くじの日。感謝という宝が連鎖した台湾でのお話でした。

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