2012年8月アーカイブ

8/26「昆虫学のパイオニア」

網を手に虫を追いかける子供達の姿は、今も日本の夏の風物詩ですが、明治時代に強い意志で道を切り開き、日本を代表する昆虫学者となった松村松年(まつむら・しょうねん)も夏休みは昆虫採集に熱中する少年でした。

実は進学した札幌農学校、後の北海道大学では、貧しい家計を助けるために土木工学を学べる工科を選びます。
しかし「何か大きな天職が待っているような気がした」という松年は農学科に移ると、まだ昆虫学の専門の教師がいない中、独学に近い形で懸命に取り組み、卒業後は母校の助教授となって日本初の昆虫学の講座を開くのです。

明治32年には昆虫学に関する分野では初めて、文部省から命じられてドイツへ留学。
害虫や益虫の研究がテーマでしたが、日本大使館駐在の軍人が「虫けらなどを研究する人間を、政府はよくもドイツまで留学させたものだ。その理由を説明してもらいたい」と問い詰めたといわれます。
松年は「日本では今日、約五千万石の米が取れるが、その二割から三割が害虫にやられてしまう。これを駆除すれば軍艦の一隻くらい訳なくできる」と説明。軍人を納得させたといわれます。

帰国後も、精力的に研究に取り組んだ松年は、明治、大正、昭和と活躍を続け、日本の昆虫学の創始者と呼ばれるほどになるのです。
昆虫に魅了されて歩んだパイオニアの道。
そこで松年は、若き日に夢見た「大きな天職」を手にしたのです。

8/19「英国人登山家と日本人猟師の友情」

イギリス人ウォルター・ウェストンは、明治の日本を訪れて信州や飛騨の山々を登り、日本アルプスの名を世界に広めた登山家。
また、狩猟や山岳信仰ではなく、登山そのものをレジャーとして楽しむことを日本に広めた、日本近代登山の父と言われる人です。

ウェストンは、地元の樵や猟師に山案内してもらいながら登山をしましたが、上高地には上條嘉門次(かみじょうかもんじ)という猟師がいました。ウェストンが嘉門次と穂高に登頂したのは明治26年。二人の初対面は登山計画について意見が合わず、感情的対立があったようです。
しかしその後、二人は何度も登山を重ねる中で、悪天候に道を断たれて山中で一夜を明かしたり、足を滑らせて危険な目に合うなど、共に苦労を分かち合ううちにお互いの絆を強めていきます。

嘉門次は幼いころから山を駆け回り、手づかみで捕ったイワナをそのまま生でかじりつく原始人のような人でしたが、ウェストンは嘉門次の山に対する技術と判断力に絶大な信頼を置き、彼の記した本の中で「ミスターカモンジ」の名は日本アルプスの名ガイドとして世界へ紹介されました。

いっぽう嘉門次もまた、英国紳士ウェストンの誠実な人柄を尊敬し、毎年ウェストンが上高地にやって来るのを、首を長くして待っていたといいます。

嘉門次が当時暮らしていた小屋は、いまも山小屋として登山客に開かれています。そこには、ウェストンが日本を離れる際に、嘉門次に友情の証として贈ったピッケルが大切に保存され、遠い明治時代に上高地で芽生えた友情をいまも語り継いでいます。

8/12「閉会式の夢」

初めて南半球でオリンピックが開催された1956年のメルボルン大会。
この大会ではもうひとつオリンピックの歴史を塗り替えた出来事があります。

戦後10年経ったとはいえ東西冷戦の中、スエズ危機、ハンガリー動乱が発生するという不穏な世界情勢の中で開かれた大会。
敵対する国同士の試合では小競り合いから乱闘騒ぎになる競技もありました。そんな緊張をはらんだ大会中、オリンピック組織委員会に一通の手紙が届きました。
差出人は17歳の中国系オーストラリア人の少年。手紙には次のようなことが提案されていました。
「オリンピックでは、戦争、政治、国籍をすべて忘れて、1つの国になってほしい。閉会式は五輪というドラマのクライマックス。すべての戦いを終えた選手たちが、垣根を越えて、オリンピックという一つの国家になって入場できないでしょうか」

閉会式。この少年の夢は予告なしに実現しました。
10万人を超す観衆の前に、アメリカもソ連も、男性も女性も、黒人も白人も、すべての選手が渾然となったパレードが繰り広げられたのです。
だれもが楽しげに、満面の笑みで観衆に手を振る閉会式。
それはそのまま世界の友好・平和・調和のメッセージとなりました。
閉会式の入場が国別でなく、各国の選手が入り混じって一体となった形をとるオリンピックは、このメルボルン大会から始まったのです。

そして、44年後。あの手紙の差出人ジョン・ウィンさんは、再びオリンピックが南半球で開かれた2000年シドニー大会の閉会式に招かれ、少年時代の夢の形をその目で見ることができました。

8/5「被災地へ向かう列車の汽笛」

昭和20年8月9日、午前11時2分。
諫早から長崎に向けて走っていた1本の列車が、長崎の5つ手前の長与(ながよ)駅に停車していました。

その時、長崎の方から強い光が発し、猛烈な爆風。
やがて見たこともない巨大なキノコ雲が立ち上るのが見えました。
混乱の中、駅員たちが必死で情報を集めたところ、長崎の町が壊滅状態になっていることが判明。

鉄道本部からは列車の運転を見合わせる指令がきましたが、現場の鉄道マンたちはこの列車を被害者救援のために、このまま長崎に向かわせることを決断します。
とはいえ、この先、線路はどうなっているのか分かりません。
そこで、蒸気機関車を列車の最後尾に付け替え、先頭の客車に係員を立たせ、手旗信号で誘導しながら徐行して進んでいきました。
もし、先頭の機関車が脱線すると取り返しがつきませんが、客車ならその1両を切り離せば済む、という鉄道マンの冷静沈着な判断からです。

原爆投下から3時間後。
ついに列車は炎がまだ燃えさかる爆心地の浦上川手前まで進んできました。そこで約700人近い負傷者を乗せ、大村や諫早の病院に搬送。
この日だけでも合わせて4本の列車で約3500人を運んだそうです。

約7万4000人の死者、負傷者は7万5000人ともいわれ、爆心地から1Km以内は9割の人が亡くなったといわれる長崎の被爆。
そんな中で爆心地に進んでいった列車の汽笛は、鉄道マンたちが命の淵で苦しむ人々に向けて必死で呼びかける励ましだったのです。

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