網を手に虫を追いかける子供達の姿は、今も日本の夏の風物詩ですが、明治時代に強い意志で道を切り開き、日本を代表する昆虫学者となった松村松年(まつむら・しょうねん)も夏休みは昆虫採集に熱中する少年でした。
実は進学した札幌農学校、後の北海道大学では、貧しい家計を助けるために土木工学を学べる工科を選びます。
しかし「何か大きな天職が待っているような気がした」という松年は農学科に移ると、まだ昆虫学の専門の教師がいない中、独学に近い形で懸命に取り組み、卒業後は母校の助教授となって日本初の昆虫学の講座を開くのです。
明治32年には昆虫学に関する分野では初めて、文部省から命じられてドイツへ留学。
害虫や益虫の研究がテーマでしたが、日本大使館駐在の軍人が「虫けらなどを研究する人間を、政府はよくもドイツまで留学させたものだ。その理由を説明してもらいたい」と問い詰めたといわれます。
松年は「日本では今日、約五千万石の米が取れるが、その二割から三割が害虫にやられてしまう。これを駆除すれば軍艦の一隻くらい訳なくできる」と説明。軍人を納得させたといわれます。
帰国後も、精力的に研究に取り組んだ松年は、明治、大正、昭和と活躍を続け、日本の昆虫学の創始者と呼ばれるほどになるのです。
昆虫に魅了されて歩んだパイオニアの道。
そこで松年は、若き日に夢見た「大きな天職」を手にしたのです。