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提供:創価学会
FM福岡(土)14:55-15:00
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8/5「被災地へ向かう列車の汽笛」

昭和20年8月9日、午前11時2分。
諫早から長崎に向けて走っていた1本の列車が、長崎の5つ手前の長与(ながよ)駅に停車していました。

その時、長崎の方から強い光が発し、猛烈な爆風。
やがて見たこともない巨大なキノコ雲が立ち上るのが見えました。
混乱の中、駅員たちが必死で情報を集めたところ、長崎の町が壊滅状態になっていることが判明。

鉄道本部からは列車の運転を見合わせる指令がきましたが、現場の鉄道マンたちはこの列車を被害者救援のために、このまま長崎に向かわせることを決断します。
とはいえ、この先、線路はどうなっているのか分かりません。
そこで、蒸気機関車を列車の最後尾に付け替え、先頭の客車に係員を立たせ、手旗信号で誘導しながら徐行して進んでいきました。
もし、先頭の機関車が脱線すると取り返しがつきませんが、客車ならその1両を切り離せば済む、という鉄道マンの冷静沈着な判断からです。

原爆投下から3時間後。
ついに列車は炎がまだ燃えさかる爆心地の浦上川手前まで進んできました。そこで約700人近い負傷者を乗せ、大村や諫早の病院に搬送。
この日だけでも合わせて4本の列車で約3500人を運んだそうです。

約7万4000人の死者、負傷者は7万5000人ともいわれ、爆心地から1Km以内は9割の人が亡くなったといわれる長崎の被爆。
そんな中で爆心地に進んでいった列車の汽笛は、鉄道マンたちが命の淵で苦しむ人々に向けて必死で呼びかける励ましだったのです。