2012年5月アーカイブ

5/27「100年後の花水木」

初夏を彩る花として日本各地で親しまれているハナミズキには、日本とアメリカの友好の歴史が秘められています。

今年はワシントンのポトマック河畔の桜並木が100周年を迎えたことで話題になりました。
日本からアメリカに3,000本の桜の苗木が贈られた際に、そのお礼として、アメリカから日本に贈られたのが、ハナミズキでした。
花言葉には「返礼」という意味があります。

大正4年のことで、白い花の苗木40本、2年後にはピンクの苗木12本が届けられました。
ハナミズキが日本に初めて渡来したのはこの時だといわれています。

苗木は東京都内の公園や植物園などに植えられましたが、太平洋戦争を境に、敵国アメリカからの贈り物は、次第に所在不明となって忘れられていったのです。
しかし、近年になって、ハナミズキの当時の原木、数本が健在であることが確認されています。
さらに今年、野田総理大臣がアメリカを訪問した際に、アメリカから3,000本のハナミズキが贈られることが、クリントン国務長官より発表されました。
秋には東京で植樹。
その後東日本大震災の被災地など、各地で植樹されることになっています。

戦争を乗り越えたポトマックの桜のように、今度こそハナミズキを100年先まで伝えたい。
多くの人々の思いが新たな歴史を育みます。

5/20「エッフェル塔の伝説」

世界一の高さを誇る東京スカイツリーがいよいよオープンしますが、タワー世界一の元祖といえば、パリのエッフェル塔です。

高さ300mの塔が完成したのは1889年―19世紀のこと。
今でこそ、エッフェル塔はパリのシンボルとして皆から愛されていますが、
建設のときにはその時代ならではの騒ぎがありました。
石造りの建物が広がる街の真ん中に、異質な醜い鉄の塔を建てれば、パリの美しさをぶち壊すことになる、と反対運動が起こったのです。

中でも、作家モーパッサンは大変な剣幕で、他の文化人たちと建設中止の要望書を政府に提出。
ところが、これを受け取った大臣は、モーパッサンの書いた要望書の文章が格調高く美しいと誉め讃え、これはエッフェル塔にとって名誉なことだと、この要望書を完成した塔の中に展示しました。
フランスの気の利いた小粋な精神=エスプリを発揮して、建設反対要望書をちゃっかりエッフェル塔の宣伝に利用した大臣の勝ちです。

でもエスプリという点ではモーパッサンも負けてはいません。
数年後、彼はエッフェル塔の展望レストランで、よく食事をするようになりました。
エッフェル塔を憎んでいるはずのモーパッサンがなぜ?という周囲の声に、彼はこう答えました。
「だって、パリの中でここが、あの、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だからさ」と。

5/13「タマゴに込めた思い」

今、スーパーなどではパック入りの卵が安く売られていますが、昭和の初めごろ、1個の卵はとても高価で貴重なものでした。
これはその時代のお話です。

小学6年生の秀子さん。
近所の川で泳ぎを覚えた彼女は水泳が大好きで、その腕前も地域の水泳大会に出て優勝するほどでした。
ある朝の食事時のこと。
すぐ下の弟が秀子さんに卵を差し出しました。
秀子さんの家の暮らしはけっして裕福ではなく、5人の子どもたちに、月に一度だけ、順番で卵を1個食べさせるのが精一杯。
その卵を食べる番になった弟が、譲るというのです。
「だって、お姉ちゃん、もうすぐ水泳大会だろ? この卵を食べて、うんとがんばってよ」
そう言って弟は恥ずかしそうにうつむきました。

数日後、今度はその下の弟が、そして、まだ学校に行ってない一番下の弟までが卵を譲ってくれたのです。
小さな兄弟たちの思いやりに胸を熱くした秀子さんは、その年の水泳大会では、小学生にして日本新記録で優勝しました。
泳ぐ力を家族からもらった秀子さんは、「私を支えてくれる周りの人たちのためにもっとがんばる!」と心に誓い、水泳を続けていきました。

秀子さんとは、後にベルリン・オリンピックで、日本人女性として初めて金メダリストとなった前畑秀子選手。
レースの実況で、アナウンサーが「前畑がんばれ!」と繰り返し叫んだことが、今も語りぐさになっています。

5/6「対馬の名外交官」

今から405年前の今日―慶長12年5月6日(※旧暦)。
江戸城で、朝鮮の国王から派遣された外交使節団が、徳川将軍と会見。
日本と朝鮮王朝との間に国交が結ばれました。

この友好関係には一人の日本人外交官の尽力がありました。
その名は雨森芳州(あめのもりほうしゅう)。
幕府に任されて朝鮮との交渉窓口となっていた対馬藩に招かれ、外交官として活躍した学者です。
雨森は「相手の国を知らなければ血の通った外交はできない」という考えから、まず自ら朝鮮に留学してハングルを完全にマスター。
語学だけでなく、歴史や地理、風俗、人情、習慣まで詳しく研究したのです。

そんな彼の外交の基本方針は、日本人のモノサシだけで測らず、相手の心を知り、それを尊重すること。
その上で、嘘をつかず、争わず、誠実に接することでした。
そして、彼はその言葉どおりの姿勢を生涯貫き、幕府と朝鮮王朝との間に立って、その架け橋となったのです。
しかし、この歴史は江戸から遠く離れた対馬でのこと。
雨森の名前は一般的にはほとんど知られることはありませんでした。

時は移り、平成2年。
日本を訪れた韓国の大統領がスピーチで「雨森芳州の誠意と信義の外交に学びたい」と挨拶しました。
韓国の大統領からその名が語られた雨森芳州。
そのことから、彼の名は日本でも日韓友好の偉大な先人として再評価されるようになりました。

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