2012年6月アーカイブ

6/24「水族館の「絆」記念日 」

今年も水族館が賑わう季節を迎えていますが、夏休みが近づく7月15日に大切な記念日を迎える水族館があります。

ふくしま海洋科学館、通称「アクアマリンふくしま」。
昨年、3月11日の東日本大震災で被災しました。
水族館の一階部分は押し寄せる津波にのみ込まれ、地下の電源装置が壊滅状態に陥ります。
それは水温や水質の維持が必要な魚達の死を意味していました。

水族館を守るためにスタッフの懸命の戦いが始まります。
しかし、自家発電の燃料も数日で尽きる厳しい状況の中、千葉県の鴨川シーワールドなど県外の水族館が原発事故の恐怖も顧みずに駆け付け、アザラシなどの生き物達を引き受けて自分達の施設に避難させたのです。
それでも、750種類、20万匹がほぼ全滅。
水族館のスタッフ達はどんなに辛かったことでしょう。

そんなスタッフを励ますように、4月には全国の水族館、動物園から様々な日用品や食料などの救援物資が届けられたといわれます。
そして被災から4ヵ月余り、全国の水族館から300種類およそ2万匹を譲り受けるなどして、開館11周年の記念日、7月15日に再開を果たします。

それから1年、今年の開館記念日は水族館の復活記念日、そして、それを支えた人々の強い絆の記念日でもあるのです。

6/17「スパイの責任感 」

戦後日本の礎を築いた名宰相・吉田茂。
彼は癇癪持ちの頑固者でありながら、ユーモア精神に溢れ、公私ともにユニークな逸話を残しています。

昭和23年の暮れ。一人の青年が総理大臣・吉田茂を訪ねてきます。
彼は戦時中に吉田の家に書生として住み込み、献身的に吉田の身の回りの世話をしていました。
懐かしい顔を見て喜ぶ吉田。しかし青年は思いもかけない告白をします。

「申し訳ありません。戦時中の私は、陸軍から派遣されて先生の家でスパイをしていたのです」
衝撃の告白に茫然とする吉田。
戦前から戦争に反対していた吉田は、戦時中も密かに和平を進める運動をしていました。
その容疑で憲兵隊に逮捕されたことがありますが、それもこの青年がスパイとして吉田の行動を伝えていたためでした。
青年は、戦後になって世の中が変わったいま、恩ある吉田茂を騙してスパイ活動をしたことの罪に服そうと覚悟して、こうやって名乗り出たのです。

その告白を聞き終えた吉田は、「お互い、お国のためと思ってやったんだから、よいよ。当時は君が勝ったけど、いまは私が勝ったね」と言って大笑い。そして、夜のふけるのも忘れて旧交を温めました。

その後、吉田はこの青年の就職まで斡旋していますが、その推薦状に、吉田はこう書いたそうです。
「この男、責任感きわめて大なり」
吉田茂ならではの愛情溢れたユーモアです。

6/10「冗談のゴール」

1904年に開催されたオリンピック・セントルイス大会。
猛暑の8月に40キロのコースで開催されたマラソンは、参加ランナーの半数が完走できませんでした。

アメリカのフレッド・ローツ選手もその一人。
15キロ地点で脱水症状を起こしてリタイアしました。
そこでたまたま通りかかった車に乗せてもらいスタジアムに帰ろうとしたのですが、スタジアムまであと8キロのところで車がエンスト。
体力を回復したローツ選手はそこから再び走りながらスタジアムに帰りました。
すると彼を待っていたのは観衆たちの歓声の嵐。ローツ選手がトップを切って走ってきたと勘違いしているのです。

もともとひょうきんな性格のローツ選手。よせばいいのに、冗談のつもりで観衆に手を振りながらゴールインしてしまったのです。
「いや、違うんです。冗談なんです」と弁解する彼の声は歓声にもみ消され、ローツ選手はあっという間に表彰台に連れていかれます。

そこへ間が悪く、本当のトップランナーがゴール。その場でローツ選手は「キセル」という不正を犯した卑怯者だと糾弾されたのです。
ほんの冗談が招いた最悪の屈辱。
でも、ローツ選手は翌年のボストンマラソンで初優勝を飾ります。

そのとき、彼は「去年のオリンピックで私がレースをごまかそうというつもりがなかったことを証明するには、このボストンで優勝するしかないと思った。私は自分がスポーツマンだということを知ってもらいたかったんだ」と語っています。

6/3「ありがとう電報」

アメリカのセントルイスに住むクレイマーさんは、子どもたちに独特の教育をしていました。

毎日夕食後、お父さんが子どもたちを集め、その日接したよその人で、少なくとも3人、その人のいいところを探して報告させるのです。
それは、些細なことでもかまいません。
スクールバスに乗ったときに「おはよう」と声をかけてくれた運転手さん。仲良く遊んだクラスメイト。買物で親切にしてくれた店員さん。

そして、それぞれの人に向けて、簡単に感謝の言葉を書いたハガキを送るのです。
例えば、「あなたと話ができてとても楽しかった。ありがとう」
「あなたの笑顔が僕に勇気を与えてくれた。ありがとう」
しばらくすると、子どもたちの感謝の気持ちは、ハガキを受け取った相手から何倍もの誠意と感謝の気持ちとなって返ってきました。
ハガキを送る数も多くなったので、クレイマーさんは専用のカードを作ることにしました。
それは「ありがとう電報」と名づけました。

それから15年後。ありがとう電報はアメリカ中の何百万という人々に広まっていきました。
アイゼンハワー大統領、指揮者のレナード・バーンスタイン、ウォルト・ディズニーもありがとう電報の愛好者でした。
あなたがいてよかった。ありがとう。
現在もありがとう電報は全米中で行き交っています。

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