2012年2月アーカイブ

2/26「空に道を拓いた女性達」

女性の人気職業のひとつ、客室乗務員は空の旅には欠かせない存在ですが、
実はこの職業は航空会社が考案したものではなく、一人の女性の熱意によって生まれたものでした。

今から80年余り前、アメリカの航空会社ボーイング航空輸送にエレン・チャーチという女性から手紙が届きます。
サンフランシスコの病院の看護師だったエレンは、乗客の看護のために自分を雇って欲しいと売り込んだのです。
当時は小さなプロペラ機で振動も激しく、恐怖を感じたり気分が悪くなる乗客もいたことでしょう。
そんな乗客の気分を和らげ看護するために、エレンは看護師の資格を持つ女性乗務員の必要性を訴えたのです。
これがきっかけとなってボーイング航空輸送は女性の採用を決定。
エレンは自分で同僚の看護師を選定し、採用された8人全員がミネソタ大学看護科卒業というスチュワーデスが誕生します。

初フライトは1930年5月15日。
グレーのダブルのジャケットスーツに紺色のマントとベレー帽というお洒落な制服もエレンがデザインしたもので、フライト中に機内でサービスするときは白衣の看護師というスタイルでした。仕事の内容は、搭乗案内から乗客の看護、食事や飲み物のサービスはもちろん、荷物を運んだり、機体の整備や、ホースを担いで給油なども行ったといわれます。

女性の職業を自分達で開拓し、タフに働いたエレンと仲間達。
空に道を拓いたそのフロンティア精神は世界に広がり、翌年には日本でも女性乗務員、エアガールが誕生するのです。

2/19「借金王を支えた人たち」

野口英世といえば偉人伝の代表的な人物。世界的な細菌学者としてノーベル賞候補にもなりました。
しかしその偉業の一方で、彼は金銭感覚がルーズで、桁違いの借金王だったことでも知られています。

英世が上京して勉強することになったとき、彼の才能を認めた歯科医の血脇(ちわき)さんは月15円の学費を援助。医師の試験に合格してもお金には不自由していたようで、故郷の親友にもたびたび無心しています。
そしてアメリカに留学するときの渡航費は、歯科医の血脇さんが新婚の奥さんの花嫁衣装を質屋に入れて立て替えています。
さらにアメリカで有名になって一時帰国したときの費用は、親友に「カネオクレ」と電報を打って用立ててもらいました。
一事が万事この調子で、野口英世は何かと友人や恩人から借金をしまくって暮らし、そのほとんどを返済することはなかったのです。
しかしそれでも、お金を貸していた人たちはだれ一人、恨み言を言っていません。

英世は晩年、アフリカのガーナに渡って黄熱病の研究に没頭し、自らが感染して昭和3年に51歳の若さで亡くなりますが、その後も血脇さんや故郷の親友は野口英世の伝記を出版する費用まで出しているのです。
お金にルーズで無頓着だが、どんな苦労も惜しまず、ひたすら研究に没頭する英世。そんな彼を何としても助けたいと、血脇さんらは、かえってくるあてのない資金援助を続けたのです。

後年、血脇さんは英世について聞きたがる息子に向かって、ただひとこと答えたそうです。「男にだけは惚れてはならぬ」と。

2/12「ベテラン飼育員の最後の仕事」

昭和42年、東京・上野動物園でゾウが脱走するという事件がありました。
鉄製の柵を壊して興奮しながら園内を歩くゾウ。逃げ惑う来園者たち。
飼育員が総出で暴れるゾウを取り囲みましたが、どうすることもできません。
パトカーのサイレン。上空を旋回する新聞社のヘリコプター。
その音がまたゾウの神経をいらだたせ、興奮させます。
じりじりと時間だけが過ぎる中、突然、
人垣の中から一人のやせ細った男性が前に進み出てきました。

飼育員たちが驚きの声を上げます。「落合さんだ!」
ベテラン飼育員・落合正吾(しょうご)さん。
長年ゾウの世話をしてきましたが、残念なことに胃癌に冒され、
仕事を辞めて自宅療養していた方です。
頬はこけ、顔色も悪く、体重は36キロにまで落ちていた落合さん。
癌が末期にあることは明らかです。
でも、自分が手塩にかけて育ててきたゾウが迷惑をかけていることを聞いて、
寝間着姿のまま駆けつけたのです。

彼は長年愛用の調教棒を手にすると、病人とは思えない凛とした声で
ゾウの名前を呼びました。
その声に振り向いたゾウの眼がみるみる穏やかになり、
落合さんのそばにすり寄っていったのです。
そしてそのまま落合さんに押されながらゾウ舎に向かって
ゆっくりと歩み出しました。

この事件の一週間後、落合さんは亡くなりました。
以来、ゾウはあの日落合さんがやってきた時間になると、その方向をみつめ、
耳をすましてじっと待つようになったそうです。

2/5「京助とワカルパ翁」

「金田一京助」といえば国語辞典の監修者として有名ですが、
彼自身が一生の仕事として取り組んだのは、アイヌ語の研究でした。

明治40年代当時はまだアイヌ語を研究する人もなく、
このままではアイヌの文化や言葉が失われてしまうと京助は考えたのです。
とはいえ、けっしてお金になる学問ではありません。
彼は妻と貧しい暮らしをしながら研究に打ち込みました。

あるとき、アイヌの人々の間に伝わる叙事詩『ユーカラ』の
語り部であるワカルパという盲目の老人を北海道から呼び寄せ、
3ヶ月間自宅に住まわせて『ユーカラ』の聞き取りをしました。
ワカルパの食事には塩鮭を出してもてなしますが、
京助夫婦は味噌か塩をご飯にまぶして食べるだけ。
酒好きのワカルパのためには着物を売ってでも酒を買い、
京助夫婦は食後のお茶も水で我慢する節約ぶりでした。
そしてワカルパが北海道に帰る際には、本を売り払って旅費を工面し、
冬物の着物のありったけを持たせて上野駅に見送りました。
このような苦労と引き換えに、京助はワカルパという一人の老人から
アイヌの言葉と文化の膨大な知識を得ることができたのです。

いっぽう北海道に戻ったワカルパは、京助から酒を買うようにと
持たされたお金で、酒ではなく糸を買って網を作りました。
世話になった京助夫婦のために、
せめて自分で捕った鮭を送ってあげたいと思ったのです。
年老いたワカルパはその網を持って、
家族が止めるのも聞かずに手探りで冷たい川に入っていったということです。

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