2009年8月アーカイブ

8/30「父と息子の「昆虫記」」

ファーブルの「昆虫記」。
本国フランスよりも日本の方で有名だといわれ、今も親から子へ読み継がれる名作ですが、「昆虫記」そのものも、親と子が力をあわせて次の時代へと遺したものでした。

ファーブルが「昆虫記」の第1巻を発表したのは1879年、55才のときのことですが、その後長年連れ添った妻が亡くなり63才で再婚。
3人の子供に恵まれました。
「昆虫記」の中の「セミ」について述べたところでは、夏に家族5人でセミの幼虫を探し、フライにして試食したことが微笑ましく語られ、「コオロギ」のところでは息子のポールがコオロギを捕まえる姿を、自分の幼い日の姿と重ね合わせながら優しい眼差しで見つめています。

「昆虫記」はおよそ30年をかけて第10巻まで発表されますが、ポールは成長とともに助手として父親の研究を助け、昆虫の生態や父親が研究する姿を、
当時まだ黎明期だったカメラで撮影しました。

実はファーブルは当初「昆虫記」に挿絵を入れていませんでした。
昆虫の姿が正しく伝わらないことを嫌ったためでしたが、のちに「昆虫記」の改訂版を出版した際には、ポールの撮影した写真を多数掲載しています。
このポールの写真はその後の「昆虫記」の普及に大きな役割を果たし、またネイチャーフォトの先駆けとして高い評価を受けています。

研究者と助手として、父親と息子として、深い信頼で結ばれたファーブルとポール。
今日多くの人が知る「昆虫記」の世界は、そんな二人の合作とも言えるものなのです。
今年も夏休みが終ろうとしています。この夏の思い出に親子で「昆虫記」のページを開いてみませんか?

8/23「書きかえられた通信簿」

「嘘も方便」ということわざがありますが、童話作家の小川未明(おがわみめい)は、病気の娘に、やさしい嘘をついたというエピソードがあります。

未明の代表作といえば『赤いろうそくと人魚』。
残した作品は数多く「日本のアンデルセン」とも呼ばれています。
しかし、作家になりたてのころは、とても貧しい暮らしをしていました。
彼には3人の子どもがいましたが、男の子を一人、病気で亡くしています。
一番上の娘は、当時小学5年生。勉強のできる子で、学校の通信簿はいつも「甲」ばかり。
昔の通信簿は、「甲・乙・丙」でつけられていて、甲が一番よい成績です。
「えらいぞ。よくがんばったな」未明は、いつも娘の頭をなでて誉めていました。

ところが、この娘も病気にかかり、一学期の途中からは学校にも通えなくなり、医者からは「もう助からないかもしれない」と告げられてしまいます。
そして、夏休みに入る前、学校の友だちが通信簿を届けにきました。
未明は、娘の通信簿に「乙」が2つあるのを見てはっとしました。
成績が下がったからではありません。
娘がこれを見たらどんなにがっかりするだろう、と思ったからです。
そこで未明は、「先生、私を許してください」と心の中で謝りながら、「乙」の字を消しゴムで消して、その上から「甲」の字に書きかえました。
そして、寝ている娘のところへ持っていき、「お前はすごいなあ。学校を休んでも、ぜんぶ甲がついているぞ」と励ましたのです。
すると娘は、「でもおかしいわね。この字、あとで書き直したみたい」と、にじんだインクを指差します。
「そりゃ先生だって、間違えることはあるさ」と未明は笑いながら答えました。
娘は笑顔で通信簿を抱きしめますが、その後、静かに息を引き取りました。

娘をがっかりさせたくないあまりに書きかえてしまった通信簿。
それでも娘の最期の笑顔を見届けた未明は、心のどこかで安心していたに違いありません。

8/16「女子大生が誕生した日」

きょう8月16日は、「女子大生の日」。
これは、日本で初めて3名の女子大生が誕生したことに由来しています。

我が国に国立の大学が出来たのは明治初期。
当時は女性に学問は必要ないとされ、大学に入学するのは男子、という暗黙の了解がありました。
ところが大正2年、現在の東北大学が「女性の受験を認める」と発表。
驚いたのは政府です。
東北大学総長の澤柳政太郎(さわやなぎまさたろう)の元に、文部省から詰問状が届きます。
そこには、「女性を大学に入学させることは前例のないことであり、すこぶる重大な事件である」と厳しく批判されていました。
しかし、澤柳は文部省に出頭し、信念を曲げることなく、女性が教育を受ける権利を熱心に説いたのです。

入学試験は予定通り行われ、中でも難関といわれた化学で、合格者11名のうち、2名が女性という快挙は世間でも注目を集めました。
こうして、大正2年8月16日に3人の女性が入学を果たしました。
そのうちの一人、黒田チカは、卒業後、理学士に、また丹下(たんげ)ウメは日本初の女性農学博士となり、二人とも「日本のキュリー夫人」と呼ばれ、さまざまな研究成果を発表しています。
その後も、彼女たちの活躍に憧れた女性が次々と東北大学入学を希望。
海外からの留学生も積極的に受け入れ、南極観測の初の女性隊員や日本で初めての女性法学士など、歴史に名を残す人物を輩出しています。

澤柳政太郎の語録に、「知らないのは恥ではない。知ろうとしないのが恥である」という言葉があります。
学びたい意思があっても学問の道を閉ざされていた女性にとって、澤柳の英断はどれだけ希望の光を与えてくれたことでしょう。
そしていまもなお、高い志を抱く女性たちによって、この言葉の精神は脈々と受け継がれています。

8/9「孤軍奮闘ガリ版印刷」

「ガリ版」という言葉を知ってますか?
明治27年に日本で発明され、全国の学校や職場で使われていた簡易印刷機。
正式名称は謄写版(とうしゃばん)といいますが、文字を刻むときにガリガリと音がすることからガリ版と呼ばれ、親しまれてきました。
しかし、昭和40年代からコピー機やワープロの普及に伴い、ガリ版は世の中から消えていきました。
ところが、いまなおガリ版にこだわる全国唯一の印刷会社があります。

兵庫県明石市の「アンドー・トーシャ」。
店主の安藤信義(のぶよし)さんは、昭和35年の開店以来半世紀、毎日机に向かい、ヤスリの上で、ロウで出来た原紙に鉄筆で原稿を書き写し、手刷り謄写印刷機で刷り上げるという仕事を続けています。
一文字一文字、ガリガリと刻んでいくガリ版。
想像するだけでも手間ひまかかる印刷で、商売としてはずっと苦しい日々が続いていました。
ところが、全国唯一のガリ版印刷という珍しさが注目され、近頃は注文が増えているそうです。

「活字になるとだれも読まない文章でも、手書きだと不思議と読まれるから」という理由で、わざわざ遠方から印刷の依頼をしてくる人。
そんなガリ版印刷の本を読んだ中学生からは、「この大好きな手書きの文字だったら、分厚い本でもきっと楽しく読めると思う」という感想が寄せられました。
ガリ版の道具を作るメーカーさえ無い現在ですが、安藤さんのもとには「長い間保管していたが、お役に立つならば」と全国の心ある人から材料や道具も寄せられています。

ガリ版がいまも多くの人たちに愛されているという手応えを感じる安藤さん。
彼の座右の銘は、「ガリ版は、手で刻む言葉」
??手で文字を書くという当たり前のことさえ揺らいでいる現代だからこそ、生涯現役としてガリ版の灯を守り続けているのです。

8/2「女島灯台」

暗い夜の海に、光を照らす灯台。
近年、技術の進歩により、灯台はすべて無人化されました。
その中に3年前まで国内最後の灯台守(とうだいもり)が勤務していたのが、長崎県の女島(めしま)灯台です。

女島は、五島列島の福江島から南西70kmに浮かぶ絶海の孤島。
東シナ海を渡る船にとってはなくてはならない重要な目印です。
昭和2年の初点灯以来、灯台守の方たちは船で食糧を積み込んで島に住み込み、雨水を貯めて飲料水にしながら、80年間灯りを守ってきました。

灯台守の仕事は、発電機を回しながら夜間絶え間なく光を放ち続けることです。
そのほかにも女島付近の気象情報を1時間おきに発信したり、不審な船を見張ったりする業務もあり、交代しながら24時間途切れることなく航海の安全を担うのです。

台風などの悪天候では、常に危険と隣り合わせ。
あるとき、猛烈な台風の風が、灯台の厚さ1センチの窓ガラスを破ってしまいました。
このままでは風圧のために光を出すことができません。
灯台守たちは危険を顧みず、ガラス破片が飛び舞う部屋に飛び込み、体中擦り傷だらけになりながら窓を修復。
日暮れには無事、光を出すことができました。
80年の間には戦争もあり、女島灯台は20数回の空襲を受けましたが、そのときも灯台守たちは自分たちの避難は差し置いて、灯台の要である巨大なレンズを取り外し、山の中に埋めて守ったそうです。

灯台守から灯台守に引き継がれて80年。
全国に3337ヵ所ある灯台の中で最後の有人灯台だった女島灯台は、平成18年、ついにその役割を果たし終えました。
現在は、太陽光発電による全自動運転で夜の航路を照らす女島灯台。
その光は、女島の海の安全を願うかつての灯台守の方たちの、思いの結晶なのです。

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