2009年3月アーカイブ

3/29「花の名前」

「おかあさん、あの花、なんていうの?」
郵便局の中で順番を待つ人が大勢いる中、幼い女の子がお母さんに尋ねます。
その日は、お母さんが保険の手続きをするので、女の子も一緒についてきたのです。

提出書類を整理していたお母さんが、ふと手を止めて、女の子の指差す方を見ると、窓口の隅に鉢植えがあり、淡い青紫の上品な花が咲いていました。
「あら、桔梗みたいだけど、何かしらね」
やがて順番が呼ばれたとき、忙しくて迷惑かなと思いつつも、お母さんは窓口のお姉さんにそっと尋ねてみました。
すると、「申し訳ありません。私もちょっと分かりません」という返事が返ってきました。

数日後、保険の担当者が、その親子の自宅にあいさつに来た際、「うちの局員から、これを預かったのですが…」とお母さんに一通の手紙を渡しました。
その手紙には、
「先日は、申し訳ありませんでした。娘さんがせっかく花に興味を持たれていたのに、名前が分からなくてごめんなさい。あの花は、“カンパニュラ”という桔梗の種類です。元々はヨーロッパの植物で、日本では“つりがね草”ともいうそうです。きれいに咲いているのに、興味を持たなかった自分が恥ずかしいですね。娘さんのキラキラした瞳に、大切なことを教えられた気がします」
と丁寧な文字でしたためられていました。

「カンパニュラ」・・・。
新しい花の名前を覚えた女の子は、それから図鑑などで調べるようになり、ほかの花や花言葉にもどんどん興味を持つようになりました。

カンパニュラの花言葉は、「感謝、誠実」。
それは、女の子の純朴な好奇心を大切に思いやり、応えてくれた郵便局のお姉さんにぴったりの花言葉でした。

西岡京治(けいじ)。
その名を知る日本人はあまりいないかもしれません。
しかし、アジアのヒマラヤの麓に広がる王国・ブータンでは、もっとも尊敬される日本人として、国民のほとんどにその名を知られています。

少年時代に戦後の食糧不足を体験した西岡さんは、農業の指導者を志しました。
そして学術探検隊としてヒマラヤを訪れた彼は、原始的な農業で食うや食わずの貧しい暮らしをしているブータンの現実を知り、農業を通じて彼らを幸福にできないかと考えました。

1964年。
彼は念願かなって海外技術協力事業団の農業指導者としてブータンに派遣されます。
しかし、外国との交流がまったくなかったブータンに、突然見知らぬ外国人がやって来て農業の近代化を説いても、誰も話を聞きません。
そこで西岡さんは、自ら小さな実験農場で作物を栽培し、その成果を見てもらう方法をとることにしました。
と同時に、積極的に村人たちに話しかけ、彼らに解け込んでいきます。
そうやって、現地の素朴な暮らしの文化に親しみ、学んでいったことで、村人たちは西岡さんに少しずつ心を開いていったのです。

やがて村人は西岡さんが身をもって示した農業のやり方に感心し、それを熱心に学び、その輪はブータン全土に広がっていきました。
2年間の活動予定だった西岡さんは、結局、28年という歳月を費やしてブータン全土の村々を回り、村人とともに水田を広げ、畑を耕し続けました。
そして1992年。彼は敗血症にかかり、ブータンの病院で59年の生涯を閉じます。
彼の葬儀には、王族や政府の要人、そして何よりも彼を慕う5000人の人々がブータン全土から弔問に集まったそうです。
国王が彼に贈った称号は「ダショー」。
それは日本語で「最高の人」を意味する敬称です。

3/15「校長先生の卒業証書」

桜の開花が待ち遠しいこの季節、全国各地で卒業式が開催されています。
ちょうど一年前、兵庫県丹波市の東小学校では、例年とは少し違う卒業式が行われました。
それは、6年生の卒業と同時に、定年退職を迎える校長先生も一緒に「卒業」を祝おうというものでした。

谷口校長が東小学校に赴任したのは、卒業生たちが4年生に進級したときです。
谷口校長は、得意な歴史のクイズを出題したり、道徳の授業に参加したり、児童たちとのふれあいを何よりも大切にしてきました。
児童たちは、自分たちの卒業と谷口校長の退職が同じ時期であることを知ると、感謝の気持ちを伝えるために、自分たちにも何かできないかと「校長先生の卒業式」を企画。
プログラムをすべて自分たちで考えて、休み時間や放課後などを利用して、密かに準備を進めてきました。

そして、迎えた卒業式の日。
6年生の卒業式が終わると、体育館には新しいクス玉や垂れ幕が用意され、児童たちが谷口校長を呼びに行きました。
真っ赤なじゅうたんの道に誘導され、卒業生・谷口校長が入場すると、会場内から盛大な拍手で迎えられました。
児童たちは、まず、それぞれが評価した通知表を手渡しました。
それには、「谷口校長は、とても話が上手です」「いつも燃えているところがいいと思います」などと書かれていました。
そして、手作りの卒業証書の授与。
「3年間、東小学校を支えてくださり、ありがとうございました」。
思いがけない退職祝いを受け取った谷口校長。
今度は答辞を述べる番です。
声を詰まらせながら「60年間の人生で、いろいろな人に出会いましたが、皆さんと出会えたことを心からうれしく思います。」と挨拶すると、会場内からも児童たちのすすり泣く声が漏れました。

去年の春、こうして6年生38名、プラス1名の卒業生は、それぞれの卒業証書を胸に、東小学校を旅立ちました。

3/8「星の海を走る夜汽車」

博多駅から東京駅まで、新幹線に乗ればおよそ5時間。
同じく博多駅から寝台特急列車、いわゆるブルートレインを利用すると、東京駅まで16時間以上。
この速さの違いから年々利用者が減り、全国を走っていたブルートレインが次々に姿を消していきました。
でも、たっぷりと時間をかけて夜をひた走るブルートレインの旅は、新幹線や飛行機ではけっして味わえない、時間と空間のロマンがあります。

福岡出身の漫画家・松本零士さんは、18歳でプロの漫画家をめざし、夜行列車で上京しました。
身の回りのめぼしい持ち物を洗いざらい質屋に入れて旅費を工面。学生服姿のまま、荷物は、700円の全財産と漫画道具一式を入れた薄っぺらなスーツケースだけです。
見知らぬ地での新しい暮らしに不安と期待を抱きながら、弁当代わりに家から持ってきた茹で卵を窓枠に並べ、水も飲まずにひたすら移りゆく車窓の景色を見続ける松本さん。
列車の窓から暗闇を見ていると、さっき別れの手を振っていた弟たちの姿や、貧しい暮らしの中で快く送り出してくれ、「苦しくなったら帰っておいで」と言った母親の顔が瞼に浮かんでは消え、切なくなりました。
真っ暗な夜ですが、時おり、人家の窓の明かりや街灯の光が、窓の前方から後ろへと流れていきます。
その繰り返しの風景を、眠るに眠れずぼんやり眺めているうち、その光が次第に、星の流れのように見えてきました。
まるで夜汽車がきらめく星の海を走っているような、なんとも不思議な感覚。
そこで彼は、将来に何か希望の光を見いだしたような気がしました。
そして後年、この日の夜行列車の体験をモチーフに、松本さんが世に送り出したのが、『銀河鉄道999』なのです。

このようなロマンと郷愁を運び続けたブルートレインが、ついに姿を消すときがやってきました。
今月のダイヤ改正で、九州と本州を結ぶ唯一のブルートレイン「はやぶさ/富士」が廃止になるのです。
およそ半世紀にわたるたくさんの乗客たちの、それぞれの思い出を乗せて、最後の列車が今週13日に発車します。

3/1「思いやりの家」

エスタスカーサ。
これは、スペイン語で「自分の家だと思ってくつろいで!」という意味です。
福岡市南区の住宅街にある「エスタスカーサ」は、障害者も、高齢者も、子育て中のお母さんも、誰もが気軽に利用できる交流スペースです。

現在の福祉制度では、障害者は障害者施設、高齢者は高齢者施設と、それぞれの施設に分けられて、サービス内容が限定されます。
それに疑問を持った代表の友足文隆(ともたりふみたか)さんが、公的ヘルパー制度では補えなかった福祉サポート空間としてオープンしたのです。

自宅と施設の往復ばかりだった障害者の人は、ここで様々な経験ができるようになり、24時間子育てに追われていたお母さんは、庭で日向ぼっこをしながら、ちょっと息抜きができるようになりました。
また、ここには近所の年配の方も遊びにきます。
お年寄りは、人生の大先輩。
子供たちに絵本を読んで聞かせたり、若いお母さんに梅干の漬け方を教えたり・・・。
まるで昔の長屋のような光景が繰り広げられます。
週に何度かは、料理や手芸教室も開かれます。
その講師もまた、人よりも少し何かが得意なご近所の方々。
そんな気安さが人気の秘訣なのかも知れません。

ここを訪れる子どもの一人は、ここにいる人たちに遊んでもらっていましたが、そのうち、そばにいる車椅子の人に自然と話しかけ、その方を手伝うようになりました。
「自分が誰かに何かをしてもらうことで、自分もほかの誰かのためにできることをしたい」と思ったのです。

代表の友足さんは、「異なる立場の人々が共に過ごすことで、世代やハンディなどお互いの違いを自然に受け入れ、人を思いやることができます」と語ります。
「エスタスカーサ」はいつでも、老若男女、あらゆる人が繋がり、お互いを思いやれる空間を目指しています・・・。

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