2009年2月アーカイブ

2/22「メダルへの思い」

冬季オリンピックに女子のスピードスケートが初めて登場したのは、1960年のスコーバレー大会。
そのとき日本女子として初参加し、3種目すべてに日本記録で入賞したのが、高見沢初枝選手です。

特に3000mではメダルの期待もかかりましたが、後で走ったフィンランドの選手に0秒4だけ逆転され、惜しくも4位。
でも自らの日本記録を30秒以上更新しての入賞だったので、悔いはありませんでした。
しかし、僅かな差でメダルを逃したことの意味を彼女自身が知るのは、結婚して引退した後のことです。
オリンピックに関係する会合があるたび「メダリスト」と、その他大勢の「出場者」に分けられる・・・。
こんな空気を敏感に察した彼女は、過去の栄光を封印して、一人の主婦として生きていくことを決意。
スケートの本拠地だった長野を離れ、東京で2人の子どもを育てながら、第二の人生を送りました。
それでも、心の中では、オリンピックや世界選手権のたびに日本女子の活躍に期待。会場へ何度も足を運びますが、日本代表選手たちに顔を見せることはありませんでした。

ところが、1992年、アルベールビル冬季オリンピックのことです。高見沢さんが会場の片隅で、橋本聖子選手が銅メダルに輝いた1500mのレースを見届けた時、二人の視線が合い、橋本選手が高見沢さんのそばに近づいてきました。
高見沢さんが思わず握った橋本選手の手が、しっかりと握り返してきました。
引退して28年。
高見沢さんが僅か0.4秒で逃したメダルを、いま若い日本女子選手が取ってくれたのです。
「やったわね、おめでとう」
それだけ言うと、あとは涙が出て止まりませんでした。
そしてその瞬間、現役時代にメダリストになれなかった自分へのわだかまりも消えたのです。
その後、高見沢さんは、パラリンピックのスピードスケートの指導者として再び氷の上に戻っています・・・・。

2/15「盗まれた思い出」

アメリカ・オクラホマ州のジェイミー・マッケルラスさんが、レストランで食事をしていたときのこと。
彼女は、駐車場に停めてあった車の中にカメラを置きっぱなしにしていました。
ところが、その1時間の間にカメラは盗まれてしまいました。
そのときの後悔の念は、とても一言では言い表すことができません。

彼女は手術のできないガンと宣告されていて、最後の家族旅行にテキサスの遊園地を訪れ、思い出のぎっしり詰まった写真を子供たちに残そうとしていたのです。
ジェイミーさんは涙ながらにテレビで訴えました。
「どうか、私の思い出を返してください」
すると数日後、そのテレビ局のリポーターに一本の電話がかかってきました。
相手は名前を名乗らず、「ニュースを見たら胸が痛んだので、カメラを返したい」と申し出ました。
そして、「駅の駐車場に赤い車がある。その後ろを見るように」と伝えると電話は切れてしまいました。
リポーターが指示された場所に行くと、そこに置いてあったのは間違いなくジェイミーさんのカメラでした。

大切なカメラを受け取ったジェイミーさんは、目に涙を浮かべて言いました。
「これがどんなに大切なものか、説明できません。
どなたか分かりませんが、正しい心を持っていてくださって、本当にありがとう」
彼女にとって、そして子供たちにとっても、お金では買うことのできない大切な思い出が返ってきたのです。

ジェイミーさんは、「もしも犯人が捕まっても、起訴はしません」と笑顔で答えました。
他人の過ちを許すジェイミーさんの心は、どんなに重い処罰よりも、犯人を改心させるきっかけになるのかもしれません。

2/8「ランタンに込められた思い」

いま長崎市内では、色鮮やかなランタンが夜を彩る「ランタンフェスティバル」が開催されています。
冬の長崎観光の目玉として多くの観光客を集めていますが、実はこのランタンフェスティバルは、もともと新地・中華街に住む人たちの、ふるさとへの思いから生まれた小さなお祭りなのです。

長崎・新地の中華街を築いたのは、大陸から日本へやってきた華僑の人々です。
明治から大正、昭和にかけて、「包丁、カミソリ、ハサミが使えれば長崎で生活できる」と華僑の間で言われていました。
包丁は料理、カミソリは理髪、ハサミは洋裁のこと。
そこで料理などの技術をもった多くの若い中国人が長崎に集まり、懸命に仕事をしながら中華街を形成していったのです。
しかし、彼らのほとんどは店の切り盛りや家族を養うのに一生を費やして、死ぬまで再び祖国の土を踏むことはありませんでした。

そんな両親たちのふるさとへの思いを、何かのカタチで供養したいと考えたのが、その子どもたち。
長崎で生まれ、長崎で育った二世たちです。
彼らが注目したのは、中国で旧正月を祝う春節祭。
中国・福建省から本物のランタン500個を取り寄せて、中華街の十字路を飾りました。
1987年の2月中旬。
爆竹や獅子舞など中国伝統の祭りを三日間にわたって再現したのです。

それから四半世紀。華僑一世の人たちのふるさとへの思いを500個のランタンに込めて始まった小さなお祭り・・。
今年は1万5000個のランタンが冬の長崎市内を彩っています。

2/1「国際雪合戦」

昭和新山を望む北海道・壮瞥町(そうべつちょう)。
人口3500人の小さな町が冬の町起こしで雪合戦に目をつけたのは20年ほど前です。
地元の人たちにとって雪は厳しい冬の象徴。
しかし、観光でこの町にやってきた南国の子どもたちが一面の銀世界に感動し、無邪気に雪合戦を始めた姿を見て、町の人たちは雪に対する思いを変えたそうです。
そしてこの雪合戦が、国際スポーツにまで発展しました。

そこで1989年に70チームを集めて始まった「昭和新山国際雪合戦」。
盛り上がったのは子どものチームではなく、むしろ大人たちだったのです。
それはごく単純な喜びと楽しさ。人に雪玉を命中させたときはぞくぞくするほどうれしいもので、反対にぶっつけられたときはモーレツに口惜しい。
よーし、今度こそは当ててやる!
雪合戦は人間が本来持っている遊びの心を刺激するものだったのです。
成功のもうひとつのポイントは、強豪チームでも、にわか仕立ての混成チームでも、大人も子どもも平等に試合が出来るよう、細かい工夫を加えたルールを確立しました。
雪玉に当たればその場で退場していき、7人のチーム全員を倒せば勝ちですが、敵の陣地に立つ1本の旗を引っこ抜いてもOK。
一人になっても一発大逆転ありなのです。
老若男女がチームごとにカラフルなスノーウエアに身を包み、作戦を練って、夢中になって大声で叫び、笑い、全身で悔しがる会場。
そこには氷点下の気温でも寒さにかじかむ人はいません。

もうひとつ、この雪合戦を支える地元のボランティアの存在も見落とすわけにはいきません。
会場設営から運営サポート、雪玉づくりまでみんな手弁当。
壮瞥町のお母さん方による豚汁サービスも、選手たちを心から温めてくれます。

町民が考え、町民で支えて大きくした雪合戦。
世界中からおよそ150チームが集う第21回昭和新山国際雪合戦は、今月21日、雪の壮瞥町で開催されます。

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