2009年1月アーカイブ

1/25「素足のビーチサッカー」

日本にも、ビーチサッカーの魅力を広めたい・・・。
元サッカー選手のラモス瑠偉さんの熱い想いを引き継いで、日本代表の選手たちを世界大会・第4位まで導いた人がいます。
「ジャパンビーチサッカーネットワーク」の常任理事を務める伊藤寛之(いとうひろゆき)さんです。

そもそもビーチサッカーは、シューズが買えない子供たちが砂浜でもサッカーを楽しめるようにと、ブラジルから広まっていったもの。
砂浜ではボールが思うように転がらないので空中戦が試合のカギを握るため、アクロバティックなプレーの連続で観客を魅了します。

伊藤さんはビーチサッカーの九州大会を実現させるため、選手集めや場所探しに奔走し、ついに1999年、「第一回地球環境スポーツ・つやざきビーチサッカーフェスティバル」を福津市の津屋崎海岸で開催。
しかし、小学生から大人までたくさんの参加者が集まったにもかかわらず、砂浜のごみの多さに、本来ならば裸足で行うはずの競技が、靴を履かなければ試合ができない状態でした。
そこで翌年の第二回は、選手やスタッフが一丸となって大会前にビーチのごみ拾いを行なったのです。

ビーチサッカーは本来、自然の中で波の音や風の匂いを感じながら楽しむスポーツ。
それは同時に、きれいな海とビーチを守ることでもあるのです。
その後も毎年、津屋崎海岸での大会とビーチクリーン活動はセットで開催され、この大会に出場する選手は、数多く日本代表として世界でも活躍しています。

伊藤さんのモットーは、フェアプレー&エコプレー。
「ビーチサッカーの普及に努めて一番うれしかったことは、子供たちがビーチ以外の場所でも、落ちているごみを自然に拾う光景を見たときです」と語ります。
これからの夢は、ビーチサッカーの日本代表を世界一に導くこと。
その想いの裏側には、世界中のビーチを美しく、という願いも込められています。

1/18「エベレスト登頂への友情」

登山家・田部井淳子(たべいじゅんこ)さん。
彼女は、1975年、標高8848mのエベレストの登頂に世界で初めて成功した女性です。

エベレスト登山の場合、ベースキャンプから第1キャンプ、第2キャンプと、頂上に向かって数ヶ月を費やして足場を作っていき、その間を何度も往復して荷物を上げていきます。
ずっと続く登山隊だけの共同生活・共同作業。
その中で田部井さんはリーダーとして、ときに心を鬼にして隊員に接しました。
全員が「登頂したい」という熱い思いで参加していますが、怪我や高山病などで体調を壊した人には、「あなたはこれ以上、駄目です」とはっきり言い渡したのです。
そうしないと、その人も危険だし、他の隊員も危険。
相手には恨まれるけれど、命を落とされるよりはいい。
生きているということが、一番大事なのです。
そして、ついに明日は頂上というとき。
アタックできる体力をもっているのは、田部井さんと一人の隊員の二人です。
ところが、残った酸素ボンベは一人分だけ。
どちらが行くか・・・。すんなりとは決まりません。
お互いに「私が登る」と譲らなかったのではなくて、逆に二人とも「あなたが登って」と譲り合ったのです。
田部井さんは、リーダーとして隊員をサポートすることが務めだと思っていたので、自分が山頂に立つ気は初めからありません。
でも、もう一人の隊員は、身につけているお守りを田部井さんに手渡して、「リーダーのあなたなら、絶対に山頂に行けるから」と懇願。
そうして田部井さんはエベレスト山頂に送り出されたのです。
山頂から見下ろすと、みんなで毎日毎日地道に荷上げをして、テントを設営して登ってきた道筋がよく見えました。

田部井さんはそのときを振り返り、「世界で初めてエベレストを登頂したのは、チーム全員。
私はみんなより一歩だけ余計に歩いただけ」と、語っています。

1/11「スペシャルお子様ランチ」

週末のファミリーレストラン。
テーブルの上でメニューを眺めている親子4人の家族がいます。
レストランではよく見かける光景ですが、実はこの家族は、ある事情を抱えていました。

娘は生まれつき重度のアレルギー。
食べられるものが限られているため、家族揃って外食をしたことがありません。
そのためアレルギー体質ではない息子もファミリーレストランに行ったことがなく、そのことをクラスのみんなにからかわれたのです。
「一度ぐらい連れて行ってあげよう」・・・。
そう考えた両親と2人の子供にとって、この日は特別な一日でした。

店員が注文を聞きに来ると、父親はアレルギーのない息子のためにお子様ランチを注文しました。
「お子様ランチはおひとつでよろしいですか?」店員が注文を確認しました。
すると、母親は申し訳なさそうにタッパーを取り出し「実は娘のほうはアレルギーで、この子にはアレルギー反応の出ない食べ物を持ってきているのですが、ここでいっしょに食べさせてもいいでしょうか?」と尋ねました。
当然ながら、レストランに食べ物を持ち込むことはできません。
店員は少し困惑した様子で、「そうですか。それ、ちょっと預からせてください」と言い、そのまま厨房へ持っていってしまいました。
中身を検査しているのか、お客が帰るときに返すという規則なのか、両親は不安と落胆が入り混じった気持ちになりました。
やがて注文したメニューがテーブルに運ばれました。
息子は旗の付いたお子様ランチに大喜び。
そしてすぐに、もうひとつのお皿を持った店長が来ました。
それは、母親が持参したタッパーの中身をきれいに並べかえて、おそろいの旗を立てた娘のためのランチでした。
両親が深々と頭を下げると、店長はにっこり笑って答えました。

「お嬢様のスペシャルランチです。ごゆっくりお召し上がりください」。

1/4「よみがえった町 」

福岡県赤池町。
400年の伝統を誇る上野(あがの)焼のふるさとで、戦前から炭坑の町として栄えましたが、石炭産業の終焉とともに町の税収も減っていき、財政が逼迫していきました。
そして1992年に31億円の赤字を抱え、当時全国でも唯一の企業の倒産にあたる財政再建団体の指定を受けてしまったのです。

「出直します。町
民の皆様のご理解とご協力を」!頭を抱えた町役場は広報誌で訴え、水道料金や町の施設の使用料を2割値上げ。役場職員の給料は、時間外手当をカット、特別手当が廃止されました。

いままで業者に頼んでいた道路工事なども、役場職員が作業。
住民から「道路の陥没がある」と連絡があると、職員が土砂を持ち込み、流し込んで補修するという有様です。
ところが、職員たちが汗をかきながら働く姿が、次第に町の人たちの意識を変えていきました。
「自分たちも町のためにできることをやろう!」
倒産した町ではお年寄りたちの介護施設を建てることができません。
「それならば」と、ボランティアによる配食サービスが登場。町の有志がガソリン代まで負担して、自分のクルマで食事を配達したのです。

このように行政と町民の多くが力を合わせて節約を重ねていった末、9年目の2001年、財政再建計画より2年早く31億円の赤字を解消。
倒産状態を脱して、健全な町の暮らしがよみがえりました。

でも、そんな赤池町の名は、今はもうありません。
平成の大合併で福智町という新しい町名に変わったのです。
でも、町の危機を住民みんなで乗り越えたという誇らしい思いは、新しい町の暮らしの中でも「自分たちで出来ることはみんなで力を合わせて」という旧赤池町の誇りと伝統として息づいています。

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